2005年09月14日

もうすぐ紀元節

 今、この原稿は年の瀬も押し迫ったクリスマスイブの夜に書いているのだ。世の中はいちゃいちゃと楽しい夜だというのに何という情けないことか。とはいえ今日は祝日になってたな。いつから日本はキリスト教国になったんだろう?なんて馬鹿なことを言ってもギャグにはならんかな。ま、天長節の振替休日という国家的なサービス休日の制度のおかげだったね。
 おっ、今、天長節なんて書いてしまったけれど、天皇誕生日というのが正しいのかな。しかし、かつては天長節といったんだ。祝祭日というのは今日がそうであったようにふつうは休みの日だ。しかし、日本の祝祭日というのはもとはそんなに気楽な休日ではなかったのだ。
 日本では1873(明治6)年に太陽暦が採用された。すなわち明治5年12月3日を明治6年1月1日として国際的暦世界に参画したのである。それまでは旧暦、すなわち太陰太陽暦というのが用いられていた。この旧暦は民衆の生活慣習と結びついていたのだけれど、明治国家としては暦の切り替えを機に国民を国家的時間枠に取り込もうとしたわけだ。そこで皇室の祭祀というのをとりあえず基準に祝祭日というものを創るということで国民の目を国家及び天皇に向けようとしたわけだ。『延喜式』なんかを参考にして決めたらしいんだけど、神武天皇即位日は最初は1月29日にしたものの後に2月11日に訂正され、神嘗祭も旧暦の日付をそのまま変えずに新暦の9月17日にしたところ肝心の初穂が収穫できないので10月17日に変更するといういい加減さであった。皇室内で祭祀が行われていたものもあるけれど基本的には国民は初めて聞く祝祭日であった。ちなみに明治10年代までに定められた祝祭日は四方拝(1月1日)、元始祭(1月3日)、新年宴会(1月5日)、紀元節(2月11日)、春季皇霊祭(3月21日頃)、神武天皇祭(4月3日)、秋季皇霊祭(9月23日頃)、神嘗祭(10月17日)、新嘗祭(11月23日)、それに先帝祭(先帝崩御日;明治天皇祭、大正天皇祭)であった。1927(昭和2年)に明治天皇の遺徳を偲んで明治節(11月3日)が加えられた。
 ところがそういう天皇制の宣伝のための休日も国民の生活慣習にはなかなかなじまなかった。農民は基本的に旧暦に従って農作業の段取りが決まっており、よけいな祝祭日はけっこう迷惑でもあったのだ。そんなわけでおとなを変えるのが無理なら子どもからということで学校教育の場で子どもたちを教化していくという作戦に出たのである。すなわち、1892(明治25)年から祝祭日には子どもたちを登校させて祝意を表する儀式を行うことにしたのである。そして翌年には祝祭日の儀式のときに歌う以下の唱歌が指定された。それを見てみよう。
 「君が代」、「勅語奉答」、「一月一日」(と~しのは~じめのためし~とて)、「元始祭」、「紀元節」、「神嘗祭」、「天長節」、「新嘗祭」の8曲だ。皇室賛歌にとどまっていた「君が代」は学校における天皇制賛美の儀式のテーマソングとして国歌のような役割を与えられていくことになったのである。手元に宮崎県高城国民学校の昭和21年度(戦後!)の日誌があるが、天長節、明治節(祝賀会後に大運動会)、一月一日、紀元節(儀式後に演奏会)の四大節にはきっちり儀式が行われていた。
 そういえば、これらの祝祭日って今も名前を変えて続いているのがいっぱいあるね。みどりの日や文化の日がかつて天長節だったって今の子どもたちは知らないみたいだし…。あっ、もうじき紀元節だぜ。心の準備を…。

延喜式とは?
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2005年09月11日

「君が代」を高らかに!

 唱歌の決定版といえば「君が代」だろう。「君が代」が法制上国歌になったのは1999年の夏、まさに世界が滅亡する頃だった。にもかかわらず「君が代」はずっと国歌のように歌われてきており、事実上国歌の扱いを受けてきた。だけど、1999年の夏に有無を言わせず(有無を言う力が衰えてきたところで)、ようやく国歌になったという歴史的事実はよく覚えておいてほしい。
 ところで最初の唱歌の教科書である『小学唱歌集 初編』には「君が代」という曲が載っている。このメロディを口ずさんでみようか(下の方)。馴れないと歌いにくいかもしれないがソプラノで歌うと賛美歌のような感じがする。
 そもそも「君が代」という曲はイギリス公使館護衛隊歩兵大隊軍楽隊長のフェントンが近代国家には国歌が必要だと主張し、自ら作曲したものであった。そして自ら音楽の指導をしていた薩摩藩軍楽隊に公式行事の際に演奏させていたものである。それは上の方の楽譜のようなものであった。英国の一軍人が一国の国歌を独断で作るという思い上がりを可能にさせた程度に日本という新興国家は舐められていたし、明治の大日本帝国の民族主義もかなりいい加減なものであったと言えよう。日本の伝統回帰はあくまで政治的で尊王攘夷が政策として破綻したところで国学とともにどこかに消えてしまったのだ。日本の国家的伝統といえばその表象とも言える国歌を外国人に作ってもらうというレベルのものであったということをよく承知しておくといいだろう。
 とは言えこれが国歌として特にいい曲には思えない。当時演奏していた海軍軍楽隊長中村祐庸もまたそう思った1人である。彼は明治9年に「天皇陛下ヲ祝スル楽譜改訂之儀」を書いて宮内省に提出した。フェントンは国歌だと言ったが中村はこの文書名にあるように国歌だとは書いていない。薩摩藩軍楽隊が演奏するために作られ、海軍軍楽隊に引き継がれただけの天皇賛美の曲という認識でしかなかったし、中村の意識も天皇賛歌の改訂なのであった。フェントンが国歌のように考えたとしても、日本政府にはそのことも理解されていなかったのかもしれない。海軍省は中村の意見をとりあげ西南戦争後になってあらためて宮内省に新しい「君が代」の作曲を依頼した。いくつかの候補作の中から宮内省一等伶人林広守の作品が現在まで歌われてきた「君が代」なのである。但し、これも宮内省のレベルで作ったのであるから、国歌である法的根拠はなく天皇讃歌でしかなかった。
 ところで、『小学唱歌集』に掲載されている「君が代」(下の方)は宮内省のものができてすぐに作られたと思われるが、文部省の発想は唱歌として親しまれて異論がなくなってから国歌に格上げしようということであった。曲はイギリスのウェッブという人の曲を持ってきて、「君が代」の歌詞を載っけただけものである。安易と言えば実に安易な作り方だ。テキトーな外国曲にテキトーに歌詞を載っけて国歌にしようという安直さが見られる。歌詞も勝手に書き加えている。まさに伝統軽視なのだ。結局、この文部省版「君が代」は今回限りで、次の唱歌集には宮内省作成のものが載り、なお「この曲は現在ではほとんど我が国歌として祝日祭日に使われている。だから学校ではよく習熟させておくように」という説明が付いている。
参考;内藤孝敏『三つの君が代』中央公論社 1997

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2005年09月10日

見わたせば何が見える?

miwataseba.JPG このところ品のない歌詞ばかりここで紹介してきたので、たまには美しい心洗われる世界をのぞいてみよう。まずはじっくり鑑賞してみよう。
 1.見わたせば あをやなぎ 花桜  
   こきまぜて みやこには
   みちもせに 春の錦をぞ
   さほひめの おりなして
   ふるあめに そめにける
 2.見わたせば やまべには
   をのへにも ふもとにも
   うすきこき もみじ葉の
   あきの錦をぞ たつたびめ
   おりかけて つゆ霜に さらしける
 さてさて、いかがなものだろうか。この歌もまた日本の最初の唱歌教科書『小学唱歌集 初編』に載っている唱歌の一つなのだ。おそらく『古今和歌集 春上』にある〈みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける〉という歌がモチーフとなっているのだろうと思う(博識!)。知ったかぶりついでに言えば「さほひめ」とは佐保姫といって春をつかさどる女神のことだ。だから一番は春の花の咲く美しさを歌い、二番は秋の紅葉を歌い上げているのである。
 とはいえ、この歌にたいした深い意味があるわけではなく、見わたせば春は(秋だって)ええ景色やなあ、という歌なのだと考えればいい。このように自然を対象として詩歌を作るお遊びを花鳥風月というのである。『小学唱歌集』では「蝶々」や「蛍」のように天皇制の刷り込みをはかっていたのだけれど、この「見わたせば」のように雅(みやび)の世界に遊ぶ歌もあったのだ。おわかりと思うけれど、花鳥風月という雅の世界はあくまで貴族趣味的なものであり、庶民の文化とはまったくちがったところにあった。これを作った人たちの大きなまちがいは貴族文化を日本文化とかんちがいして子どもたちに教えようとしたことである。『小学唱歌集』を歌わされるのはこんな雅の世界とは関係のないフツーの子どもたちだ。そのフツーの子どもたちにわけのわからん花鳥風月を強いたところでついていけるはずがない。実はこれを教えなくちゃいけない教師も貴族文化と無縁なのに、である。この温度差が学校教育の基本にはあるようだ。


 ところで、作曲はフランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacque Rousseau1712~1778)。ルソーのことは知っていると思う。読者諸氏はきっと学校の先生が多いと思うので、教職課程を履修した頃を思い出してほしい。『エミール』という教育について書かれた名作の著者がルソーだ。読んでなくても教職採用試験に必ず出る著作だからかつて覚えたことがあるはずだし、社会科の先生なら『社会契約論』(自由民権運動の頃には中江兆民によって『民約論』として訳された)の著者として生徒に教えていると思う。ルソーは思想家、小説家として有名なだけでなく音楽家としても活躍した人物であり「音楽は恋と並ぶもう一つの情熱」(『告白録』)とまで言っているのだ。
 で、どんな曲だったんだろうか。みんな知ってると思うよ。ほら、♪む~す~ん~で~


唱歌の勉強
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2005年09月06日

尊きものは我が師の恩

 卒業式といえば「蛍の光」だ。いや、「仰げば尊し」ではないかとか、卒業式に「君が代」は欠かせない、という人もいるだろう。でもやっぱり「蛍の光」だろうな。そんなことを考えている卒業式シーズンに京都郡の読者の方から「仰げば尊し」はいつから歌われるようになりどういう事情で卒業式で歌われるようになったのか、という問い合わせを受けたのだ。
 「仰げば尊し」は文部省著作『小学唱歌集 第三編』(明治17年刊行)に所収されている唱歌だ。だから明治17年にはどこかで歌われていただろうけど、卒業式で歌われたのはいつからだろうか。毎日コミュニケーションズ刊の『明治ニュース事典』というのをひもといてみるとそのマスコミにおける初出はなんと福岡県であった。明治22年7月19日に福岡県山門郡第二瀬高高等小学校では校舎の新築を期して上棟式並びに学期試験免状授与式(終業式と卒業式)をおこなっているのだ。
 「えっ、7月に卒業式だって?」と思うかもしれないけれど、この頃の福岡県では9月入学制が多かったみたいで、第二瀬高高等小学校も7月に卒業式していたようだ。それから卒業式と修業式を一緒にやっているよね。これも現代では違和感があるだろうけど、この4年前までは等級制といって半年毎に試験をして進級するというシステムをとっていた。わかりやすく言えば碁や将棋の級みたいなものだ。だから卒業は最上級の合格という意味だったのだ。その名残として卒業式と終業式が同時に行われたのだと考えていいだろう。
 その様子を掲載されていた「福岡日日新聞」の記事から見てみよう(文体は読みにくいけどがんばって読もうね…あとで教材に使えるかも)。

 当日は折悪しく大雨にて来賓多からず。第一鐘の点呼にて生徒式場に入る。次に郡長、町村長、校長等それぞれ着席ありて、一同立礼終わりて唱歌(君が代)、次に学期試験成績の報告あり。これより第一年生より順次修業証及び卒業証の授与ありて、卒業生唱歌(仰げば尊し)、郡長十時一郎氏の祝詞朗読終わりて、本校首坐訓導中村九郎氏の答辞朗読あり。次に柳河高等小学校長、上庄尋常小学校首坐訓導、村長鬼又彦氏及び同校訓導宮本伯次郎氏の祝詞朗読あり。唱歌(螢の光)、第二鐘の点呼にて、来賓及び生徒は扣所に入る。この時中村氏は学芸品陳列場へ来賓を誘導す。午後一時来賓悉皆宴席に着く。宴会の間同校女生徒をして酒間の周旋をなさしめしは、かの普通酌女のごとき野鄙の観なく、終始宴席慇懃なりしは、来賓もいっそうの愉快を感じて、午後第四時退散されたり。続きて廿日、廿一日の両日は、学芸品の縦覧を許せし由。

 なんと「君が代」「仰げば尊し」「蛍の光」と卒業式用唱歌の三点セットが見事に揃っているではないか。驚くべきことに校長、首座訓導、村長、訓導としゃべるのはみんなおとな。子どもの出番はなく、ただ式場で立っているだけのようだ。しかも、女生徒に宴会の酌をさせている品のなさは学校が性差別の温床であったことを物語っている。というより、酌をする人間と、される人間のどっちが主役だろうか?考えなくとも、卒業式は明らかに教職員の仕事納めであり、近隣の学校管理職や行政のお偉方と喜びをわかちあう場でもあったことがよくわかる。だから酒席に女生徒をはべらせて、バックグラウンドミュージックに「♪仰げは尊し、我が師の恩~♪」とやればその達成感は感動ものだったろうね。
 誰ですか?やってみたいというのは……


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恋の歌は危険なの

 「蝶々」や「蛍の光」が載っている『小学唱歌集 初編』は明治14年11月刊行という奥付が入っているのだけど実は発行まぎわになって出版が延期になったのだ。実際に刊行されたのは翌明治15年の4月のことであった。何でそういうことになったのかというと、ちょいとワケがあった。当時音楽取調掛の伊沢修二は彼の師であるメーソンと協力して『小学唱歌集』のための曲づくりをしていた。まず伊沢とメーソンが中心となって曲を選定し、それに歌詞をつけた。メーソンは日本語がまったくわからないので、歌詞は伊沢が中心になったことであろう。そしてその歌を東京師範学校の生徒に歌わせて適否を検討して、できあがった原案を文部省へ回して審議し、音楽取調掛で再検討して完成、という段取りを取っていた。ところが文部省では音符を読める人間はおらず、今のようにテープとか、CDというようなものもないため、必然的に審議は歌詞が中心になった。
 そういう過程でこの「蛍」(この頃は「蛍の光」ではなく「蛍」だった)も文部省の審議に付されたのである。それは刊行直前の10月のことであった。この時3番の歌詞に問題ありという意見が出たのである。クレームをつけたのは文部省普通学務局長の辻新次という人物だった。問題になった3番の歌詞とは次のようなものであった。
  つくしのきはみ みちのおく
  わかるゝみちは かはるとも 
  かはらぬこころ ゆきかよひ
  ひとつにつくせ くにのため
(意味:九州から東北(つまり「やしま」の端と端)まで別れた道は違っていても、変わらぬ心をお互い通わせて、一つに尽くそうぜ、国のために)
 さて何が問題かというと、辻は『徳性涵養』の面でこの歌詞はよくないと言うのだ。辻によれば歌詞中の「かはらぬこころゆきかよひ」という表現は親子兄弟や友人の間では言わない言葉である、こうした言い方は主として男女間に契る言葉であって、「遠く離れていてもお互いに恋い慕う男女の心が通う」という意味だから、学校で児童の徳性を涵養するものにはふさわしくない、というご意見であった。まさに「へぇ~」である。「たとえ離れて暮らしても、お嫁なんかにゃ行かないわぁ~」という都はるみの歌があったのを思い出しちゃった。
 それで次のように歌詞は変えられたのである。
  つくしのきはみ みちのおく
  うみやまとほく へだつとも
  そのまごゝろは へだてなく
  ひとつにつくせ くにのため
 (意味:九州から東北まで海山遠く離れていても、その真心には隔てなく、一つに尽くそうぜ、国のために)
 辻が示した判断は近代日本の教育のあり方を象徴的に示すものだった。ここでは「学校教育の場に色恋の表現を持ちこむのは不謹慎だ」という形であらわれたが、辻が言いたかったのは「学校に通う子どもというのは未熟な存在である。その未熟なヤツらに恋愛のようなおとなの世界を知らせてはいけない」ということなのだ。その後学校では「発達段階」というもっともらしいエセ学術用語で辻の意見を擁護し、子どもの人間らしさ(=人権)を奪い取ってきた。ここで言う恋愛に象徴されているのは、発達段階からみて「おまえたちにはまだ早い」のひとことで何でも抑えつけてきた。自分の意見を持つこと、表現すること、プライバシーがあること……。そう、それは今も続いているでしょう。
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「蛍の光」は悲しい予言

 「蛍の光」という歌は知っているよね。♪ほた~るのひかあり まどのゆ~きぃ♪ という卒業式の定番の曲だ。この歌を聴くと何か青春の思い出がじ~んと甦ってきてウルウルときちゃう人も多いだろう。手を焼いた生徒たちを送り出すときもこの曲が流れると「教師をしていてよかった!」なんて思うんじゃないかな。パチンコ屋の閉店の曲もこれだっけ?とにかく別れの場面には書かせない曲ではあるよね。実はこの曲はいろいろとワケアリの曲なのだ。
 ふつう卒業式では1番か、せいぜい2番までしか歌わないと思う。実はこの歌は4番まであるのだ。2番までしか歌われないのはそのワケのせいなのだ。
 まずはは4番を紹介しよう。 
            
  千島のおくも おきなはも            
  やしまのうちの まもりなり           
  いたらんくにに いさをしく           
  つとめよわがせ つつがなく         

 ちょっとむずかしいから解説をつけておこう。「千島のおく」というのはもちろん千島列島の奥のこと、北方領土のことだ。「おきなは」というのは沖縄のこと。「やしま」とは日本列島の美称。『古事記』の中でイザナギ、イザナミノミコトがナニをして国を生んだときに生じた八つの島のことを指す。『古事記』では大日本豊秋津洲(オオヤマトトヨアキヅシマ)(本州)、伊予二名洲(フタナノシマ)(四国)、筑紫洲(ツクシシマ)(九州)、億岐洲(オキノシマ)、佐渡洲、淡路、対馬(ツシマ)、壱岐(イキ)のことだという。もちろん千島も沖縄も「やしま」にはカウントされていない。「いたらんくに」とは千島や沖縄のこと。そこにはまだ日本(天皇)のありがたい政治が行き届いていないことを「いたらん」と言う。「わがせ」の「せ」は夫とか親しい男性をさす言葉。
 というところで、この歌詞を解釈すれば〈千島だって沖縄だって、神の国大日本帝国の防波堤なのだ。まだまだ天皇陛下のありがたい政治が行き届いてはいないとこだけど、真面目につとめるんだ、男の子だろ。そして日本の平和を守るんだ。〉とかナントカいう意味だろう、と思う。国語の先生ならもっと正確に解釈できるだろうからそのあたりは職員室で相談してくださいな。それにしてもこんな歌詞を聴いたら沖縄の人は怒るだろうな、って思うだろう。何しろ沖縄は日本本土の防波堤だって堂々と歌いこんであるのだから(しかも原案は「やしまのそとの」だったそうな)。そんなワケで今ではこの歌詞は歌われなくなっている。
 この歌は日本で最初の唱歌の教科書『小学唱歌集初編』に「蝶々」と一緒に載っている曲だ。この教科書の奥付は明治14年11月。そして2年前の明治12年4月には琉球王国を沖縄県にしてしまういわゆる琉球処分が行われたことは知ってると思う。琉球王国の人々の気持ちとは関係なく日本に併合しちゃったその直後に「沖縄は防波堤だ」という唱歌を作ったのだからその神経はたいしたものだ。
 重要なことはこの歌が卒業式のたびに愛唱されたということである。実際には4番まで歌うことは少なかったかもしれない。しかし、万感の思いを胸に、そういう感性の込められた歌を聴いて若者は育っていったのである。『小学唱歌集』から60年後、日米の間に戦争が始まり、その最後の生き逃れのために日本は沖縄を防波堤としてまさしく捨て石に使った。沖縄戦はまさに近代日本の中における沖縄を象徴する悲劇だった。その悲劇を「蛍の光」の4番は予言していたのだと思う。
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「蝶々」は教師のねがい

 今回は学校で教わる音楽について考えてみよう。今の子どもたちのまわりには音楽はいやになるほどあふれている。行くなと言うのにコンサートには高い金をかけて出かけるし、本は買わないくせにCDはバンバン買ってくるし、人の話も聴かないで耳にi-podとかなんとかをつけて「音楽鑑賞」にふけり、その成果をカラオケボックスで次々と披露してくれる。他の教科もこんなに楽しく勉強してくれれば、低学力なんて心配しなくてもいいのにと思いきや、それは教科としての音楽ではない、という声が返ってきそうだ。今や音楽は学校で教える意義をなくしちゃったのかもしれないぞ。
 教科としての音楽ははじめ唱歌といって、歌をうたうことだった。しかし、明治以前の日本には唱歌というようなものはなかったので、『学制』には「当分之ヲ欠ク」とあった。出来もしないのに何で規則に入れたのかというと、教えるべき教科として定められたのは教則そのものがアメリカのコピーだったからだ。信じられないかもしれないが、大日本帝国という近代国家はまず外国のコピーから始まったのだ。
 ところで、その唱歌に教科としての意味を与えたのは伊沢修二という人物だった。伊沢は明治8(1875)年に文部省の留学生としてアメリカにわたり、そこでメーソンL.W.Masonという音楽教師と出会い、唱歌の技法を会得するとともにその意義について考えたのである。
 アメリカ留学中に唱歌の重要性にめざめた伊沢は文部省に対して学校で唱歌を広めるようにという建言を送った。この建言には「人間の高尚な情操と体力の発達には音楽や唱歌の功績が大きいのだ。日本の文化もこの面で充実させ外国と交際していくためにも国楽(ナショナル・ミュージック)をおこさねばならない。」というようなことが書かれていた。
 帰国した伊沢は音楽取調掛を文部省に設置させ、彼の師であるメーソンを日本に招聘して唱歌の教材づくりを始めた。こうして明治14年11月に『小学唱歌集』ができあがった。そのメッセージとはどういうものだったのだろうか。まずは名曲『蝶々』をみてみよう。何しろこの曲は伊沢が留学前に構想し、留学中にメーソンの指導で作った日本で最初の唱歌とされているものだ。
  てふてふ てふてふ 菜の葉にとまれ
  なのはにあいたら 桜にとまれ
  さくらの花の さかゆる御代に
  とまれよあそべ あそべよとまれ

 ちょっと知ってる歌詞とはちがうようだ。「てふてふ」を「ちょうちょう」と読むことはご存じとしても「さかゆる御代に」というのはどういうことだろうか。伊沢はこの歌詞の趣旨を「皇代の繁栄する有り様を桜花の爛漫たるに擬し、聖恩に浴し太平を楽しむ人民を蝶にたとえた」と説明している。要は天皇の治世はありがたい、ということだ。深い意味がある歌だったのだ。今歌われている「花から花へ」では詩としてあまりに平板ではないだろうか。ついでに二番もみてみよう。

  おきよおきよ ねぐらのすずめ
  朝日のひかりの さしこぬさきに
  ねぐらをいでて こずえにとまり
  あそべよすずめ うたへよすずめ

 こちらはトーンがガラリと変わっている。実は作詞者が違うのだ。で、意味は「雀を学び遊ぶ児童にたとえ、子どもの朝寝を戒め、早起きして学校へ行き終日学芸に遊べ」ということでじつに教訓的な内容なのだ。伊沢の言う「人間の高尚な情操」とか「日本の文化」というのは天皇制の賛美と勤勉な国民性であり、それを伝えていくのが教科としての唱歌だった。歌いながら国民精神が身にしみてつくられていく……いわば元祖体験的参加型学習だと考えていいだろう。そういう体質の音楽って楽しいはずないよね。
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管理教育は徹底的に……

 森有礼のつくった師範学校令は順良・信愛・威重という教師たるべき気質の形成を師範教育(教員養成)の目標としていたのだけれど、そうした教育はもちろん兵式体操にかぎられたことではなかった。現在でも、例えば「同和」教育に関して言えば、その場限りの部落問題学習ではなく全教科全領域を通じての同和教育が必要なのだ、とか言うだろう。また、有能な同推教員、もとい児童・生徒支援加配教員がいてもいじめや差別事象の絶えない学校もあるだろうし、その意味では兵式体操が持ち込まれただけで学校教育が軍隊に似てくるわけがない。森はもっと徹底的に学校文化を変えなくちゃならなかったのだ。
 ところで、近代学校教育が始まってまもないころに生まれた中学校とか外国語学校といったレベルの学校教育は政治や社会思想に強い関心を示すものが多かった。殊に自由民権運動が盛り上がってくるとモロに政治運動の拠点と言っていいような学校も出てくるほどであった。福岡区内(今の福岡市街地)にもいくつかの私塾のような学校が群生し、それらの学校では夜な夜な政治演説会が催されていた。たとえば向陽義塾という私立中学では毎土曜日の夜の演説会には常に7~800名の聴衆があって、壮快な演説になると人々は燃え上がったという。
 師範学校もそうした学校のひとつであった。当時の師範学校生が「今でいふ雄弁会の様に、各学校から幾人か出て立会演説会をやったものです。私も時偶には引き出されました」と回顧しているように師範学校もそうした時代の風潮のまんなかに位置していたのである。政治というものは人間が生きていくことと結びついているものなのだから、人間形成の場である学校とか教育というものが政治とか社会と主体的にかかわるのは当然といえば当然のことであったのだ。というより政治や社会に関心があるゆえにもっと学びたいと若者たちは学校に上がってきたのである。
 もう少し当時の師範学校生の記憶を借りると「学校の校規なども今日の如く周密なものではなく、極めて寛大なもので、唯僅かに寄宿舎に門限があった位である。生徒の気風も気宇壮大で、玄洋社一派の青年志士などとよく交り、兎刈などをして楽んだ事を記憶している」と生徒たちが自由な生活の中で自己形成をしていたことが想像できるだろう。若き知識人であった師範学校生にとってはそれがあたりまえの学校生活であったのだ。ところが師範学校令が実施されると事態は大転換を遂げることになった。つまり生徒たちを24時間どっぷりと順良・信愛・威重の文化につけ込むことであった。完璧な参加体験型学習である。
 それは生徒たちが生活のすべてを委ねる寄宿舎の改革に端的にあらわれる。再び卒業生の記憶を借りよう。少々読みにくいけどナマの言葉からリアリティを感じてほしい。
 「(師範学校令以後)寄宿舎生活はすつかり変つた。頭は五分刈となつた。服は小倉織のジヤケツ服、帽子は軍隊と同じ独逸帽、外套、靴、靴下又は文具に至るまで一切官給品であつた。舎内の整頓掃除の苛厳な事、器物の排列方、布団毛布の積み方は全面の角は垂直でなければならぬ。畳の上に塵一本の散在を許さぬ。舎監の検閲が時々行はれる。鴨居の上を撫でゝ其微塵を払はすなど、水も漏らさぬ監督振りであつた。飯は麦飯とメンコ〈軍隊の食器-新谷注〉に変る。一方兵式教練、強行軍の鍛錬が励行される。附属の児童は男児は跣足の運動、病気の外は足袋、袴下、襟巻を一切禁止した。女子には袴を奨励した。(後には一般的となつた) 校長、諸先生も皆詰襟服に制帽だつた。因より高圧的に一から十迄全く軍隊生活に急変した。此未曾有の革新に対して在来の生徒は随分不平や愚痴をコボしたが追付かない。」
 学問とか教育というものが学ぶ人間の手から国家のモノへと移った瞬間の貴重な証言である。重要なのは寄宿舎、即ち日常生活の大部分が学校(=国家)の管理下に入ったことである。それは列挙されているように頭髪、着るもの、持ち物、食べるもの、掃除のしかたなどに対する徹底した管理主義である。もう一度繰り返そう。頭髪、着るもの、持ち物、食べるもの、掃除のしかたなどである。胸に手をあてて、もう一度……
        (この項の引用はすべて福岡師範学校『創立六十年誌』昭和11年)

森有礼のことなら

師範学校のことなら
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気をつけ!礼!

 「気をつけ!前にならえ!礼!」なんていう号令を聞くと子どもの頃が懐かしくなる人も多いと思う。おっと、これを読んでいる人は学校の先生が多かったっけ。それなら懐かしいもへったくれもなくて日常なのかな。ともかく教師ではないふつうの人にとって懐かしい体験であるというのは、学校を出てからはそういう扱いをされることはあまりないということと考えていい。ということはこうした号令というのは学校においてのみ意味を持つものだということである。
 学校教育におけるこうした号令の意味、そしてどうしてこの号令にしたがってきちんと列をつくり等間隔で並ぶことが学校では要求されるようになったのかを考えて見よう。
 1883(明治16)年に徴兵令が改訂されて、中学校・師範学校で在学中に「歩兵操練」を履修すると在営期間を減免即ち兵役の期間を短くするということになった。これがまずは事の始まりであった。文部省(もちろん軍隊とは管轄がちがう)はさっそく学校教育における歩兵操練のやり方について体操伝習所(現在の筑波大学体育専門学群の前身)に研究させて内容を検討させたのである。その結果、中学校・師範学校での歩兵操練の内容が考案され、伝習所は小学校高学年でも隊列運動を課すことも報告に入れた。つまり、教師の号令にしたがって隊列を組むという習慣は徴兵制度との関係で学校に入ってきたのがはじまりということなのだ。ここまで聞いただけで実直な平和主義者なら明日から「気をつけ!」っていうのはやめたくなるだろう。
 1885(明治18)年の内閣制度成立にともなって最初の文部大臣となる森有礼は近代国家日本の教育は国家の形成主体である国民ではなく天皇に忠誠を尽くす臣民を育てることであると考えていた。そのためにまず然るべき気質を持った教師を造らねばならない、というのが森の構想した師範学校令の目的とするところであった。その気質とは森が作った師範学校令の第一条に順良・信愛・威重である、と明記されている。順良とは服従のことであり、教師は上司(=校長=天皇)に絶対的に服従することを要求した。信愛とは友情のことであり、教師同士は篤い同志的連帯で結ばれていなければならなかった。威重は文字通り威厳をもって重々しく子どもや親には接するべきであるということを示す。もちろん、国家や天皇の威光を背にしてのことである。まぁ、上には媚びへつらい、お互い傷を舐めて庇い合い、子どもや親には威張り散らすというのが期待された教師像であった。
 森は文部省入りをすると師範学校で兵式体操を採用することをあらためて指示した。兵式体操とは前述の歩兵操練を継承したものである。森が兵式体操を採用したのは前述のような在営短縮のためではない。教師たるべき順良・信愛・威重の気質を涵養するにはこうした軍隊の訓練の方式がいちばんいいと考えたからである。なぜなら、軍隊がもっともこの上意下達の意思伝達の組織だったからである。つまり軍隊的な組織の教育力がここでは重要だったのだ。兵式体操がこのような教育的な意味を持った体操となったために、「気をつけ!前にならえ!礼!」という号令も、きちんと隊列をつくって並ぶことも人間形成に意味のある教育的なことなんだと学校では信じ込まれるようになり、今日も校庭に号令が飛び交っているという次第なのである。
 ところで、軍隊でいちばん必要なのは統制の取れた団体行動である。古いニュース映画などに出てくる旧日本軍やナチスの観閲式の様子を見ると実にビシッとキマッタ行進をしている。そしてナチスの場合はヒットラーの前に差し掛かると手をパッと挙げて最敬礼をするけど、あまりにカッコイイものだからけっこう学校の体育祭などでやっているところもあるみたい。よくよくやっていることの意味を考えてみる必要がある。
 カッコイイついでにもうひとつ兵式体操の置土産を挙げておこう。例えばこの行進を和服でやってもサマにならないし、動きにくい。近代軍隊の訓練にはやはり軍服がいちばんふさわしいし、何しろカッコイイ。そこで師範学校では兵式体操のために軍服を模した服を着せ制服としたのである。それが学生服のはじまりだ。今では軍服はカーキ色ときまっているようだが、実は当時の陸軍下士官の戦闘服は黒だったという(佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館)。だから学生服は軍服そのものなのである。学校教育の場に教育的理由を以て軍服が生き延びているということは実に意味の深いことではないだろうか。


軍隊のことはこれ
posted by 河東真也 at 20:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

2005年08月31日

学校は軍隊に似ている

 1995年に国連で採択された「人権教育のための国連10年」は20世紀末から21世紀にかけての日本の「同和」教育、人権教育に大きな影響を与えた。行政にとってはこの「10年」にもとづいて行動計画が各自治体で作成され、その実施が人権教育にかかわるあらゆる場で展開せざるを得なくなったのだった。この「10年」が提起したものを一口で言えば、「人権文化を築く」ことだったと言ってよい。「10年」以降の人権施策にもこの考えは受け継がれている。かといって「人権文化」なるものは特別なものではない。人権文化とは社会に漂う「空気」のようなもので、その「空気」を吸って育っていくとその社会の住人にとって人権を大切にするということがあたりまえになってくるということだと考えている。
 なかでも学校は子どもたちがもっとも長く「空気」を吸いつづけている場所のひとつである。学校の中の空気が子どもたちの人権を押しつぶすほど澱んでいたならば、この「空気」を換えていくことが(換気!)人権文化の構築にとっては欠かせないことになるだろう。近代学校が誕生して以来学校の中に溜まった「空気」がどんな「空気」であるのか、この場を借りて考えてみたい。
 まずは学校における集団生活について考えてみよう。
 集団生活のルールを身につけよう!という指導は学校の中ではよく行われるものの一つである。ごくごくあたりまえに「集団生活のルール」というものを若い時期に身につけておかないといけないと信じられ、特に疑問とされずに教育目標に掲げられているものである。そういう意味で学校文化の常識のひとつだと言えなくもない。
 しかし、学校でそうやって教え込まれた「集団生活のルール」は学校を出てからはおそらくほとんど役に立たないものである。世の中には集団生活というものはけっして多くはない。学校で身につけた集団生活のルールが役に立つと思ってそのつもりで企業社会に出るととんでもないことになる。
 集団生活のルールが必要とされるのは集団での行動が職務とされている一部の職種に限られていると言ってよい。だから、そうした仕事のしかたが必要とされている職種の新人研修で必要に応じて教えられればいいものであって、すべての子どもたちが身につけなければならない問題ではないのである。ほとんどの人間にとって学校を出た後「集団生活の大切さ」なんて強いられることはまずない。
 にもかかわらずこれが学校教育で重視されているのは、戦前の教員養成が集団生活を重んじる学校文化の中で行なわれたことに起因すると考えられる。1886(明治19)年に森有礼文相は師範学校令を制定して教師として必要な気質をその教育目的に掲げた。それは順良・信愛・威重(いちょう)という三つである。森によれば順良とは従順ということであり、上の者の命令にすなおに従うことであった。信愛とは教師どうしが互いに友情で結ばれることであり、威重とは(自分より下の者に対して)威儀を以てふるまうということである。わかりやすく言えば上には無批判に従い、互いに守り合い、子どもや保護者にはえらそうにふるまうという人間像である。
 そうした気質は口先だけの講釈で身につくものではない。徹底して身体で覚えさせ、集団として共有化させる必要がある。そうした人材養成を行なう格好のモデルがあった。目的が明確で、上意下達の組織原理を持っている集団といえば“軍隊”である。森は師範学校教育に軍隊のシステムを採用したのであった。さて、何が似ているのか。それは次のお楽しみ……。


歴史研究は歴史書から
posted by 河東真也 at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

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