2013年02月11日

学校化現象という危機 第九章 学校化現象という危機 ん第九章 学校化現象という危機 学校化現象という危機

はじめに

 学校では一定の〈知〉が伝達され、学習者は知識を獲得し、また学校教育を通じて人間形成のある部分がなされる。これは学校に用意されたカリキュラムによって組織的に行われる営為である。しかし、学習者は学校の用意したカリキュラムによってのみ教育されるわけではない。たとえば、大学進学を目指す者がいわゆる進学校に入ろうとするのだろうか。高等学校の学習内容は国の定めた『学習指導要領』に基づいており、教科書も『学習指導要領』に準拠して編集されている。授業の水準に差があると言われても進学実績の高い高等学校の中にはほとんど受験向けではない授業をしているところもある。その高校生たちをして高い進学実績に至らしめるのは当人自身の努力のみではなくその高等学校の持つ高い進学指向の雰囲気であろう。そのように表面には記述されていない教育機能をhidden curriculum(隠されたカリキュラム)と呼ぶ。M・W・アップルらが言うように、hidden curriculumとしての学校文化が生徒の人間形成に与える影響は大きい。学校の教育機能を見るときこのhidden curriculumを看過することはできない。
 この講義の第三章「近代という教育思想」において就学率上昇と高校進学率向上の表を示した。就学率(進学率)が向上し、一〇〇%に近づくということはどういうことなのだろうか。第一に言えることは学校に行くということが当たり前の社会になっていくということである。明治末期には義務教育であり、昭和四〇年代には高等学校が日本の子どもたちにとっては「当たり前」に行く場所となっていったことが表からは読み取れる。すでに学んだように近代学校は近代という思想を具現化した組織であり、そこは独自の文化を展開する場でもあった。近代学校の持っている特徴について「第三章 近代という教育思想」において学んだように共通の教育目的とカリキュラム(国家意思の反映)、学習者のneedからの乖離、内容の百科全書化、方法としての一斉教授、管理主義的傾向などがあげられる。そうした近代学校の特徴は独特の学校文化を醸成する。そして、学校へ行くことが当たり前になるとそれはその社会の当たり前の文化となり、学校的なものの考え方が社会を変えていくということが起きてくる。
 アップルは近代学校教育に位置づけられたカリキュラムがイデオロギーであることと同様に、いやそれ以上にhidden curriculumのもつイデオロギー性は強いと言う。国策が(戦後教育改革のように)イデオロギー転換をしたとしても学校文化にもしくは教員文化に内在するイデオロギーは生徒の人間形成過程の根底を支えていると言うことができる。それはE・ジェルピが言ったことに通ずる指摘でもある。

一 「学校化」という問題
 一九七〇年頃にI・イリッチ(Ivan Illich)は『脱学校の社会』(東京創元社)という本を書いている。イリッチはこの本の中でwebという言葉を使っているが、訳者はこの言葉はなじめなかったらしく、とりあえずネットワークと訳す、と注記している。しかし、四〇年後の現代では当たり前の言葉となった。その先見性は注目すべきであろう。この本の冒頭でイリッチは学校は「目的を実現する過程と目的とを混同させる」ものであると言っている。学校化が進めば、すなわちこうなるというのだ。この「過程と目的の区別があいまいになると、新しい論理がとられる。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか、段階的に増やしていけば成功するといった論理である。」ということである。つまり、学校は本来の目的以上によけいなことをするようになると言うのだ。いや学校だけではない。学校化されるのは学校ではなく(既に学校は学校化されているものだ)、社会が学校化するのである。教育に関していえば、よけいなお世話をするのは教師であり、親であり、大学や高校(学校の卒業生の受け入れ先、という意味)、教育産業であり、建築業であり(子ども部屋付き住宅の普及)、マスコミであり、……よけいなことはいっぱいある。もちろんそれらはイリッチ以前から存在するが、この二、三〇年の間に急速に進んだように思える。で、イリッチは続けて言う。「このような論理で学校化されると、生徒は教授されることと学習することを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる」と。教育に対する勘違いが始まるのだ。ここに揚げているようなことは現代社会ではいっぱい起きている。換言すれば、子どもたちは学びに対して受け身になり、親たちは子どもの人生ではなく学歴だけに関心を持ち、教師たちは進学実績の向上にのみ邁進することになる、ということだ。学校化とは〈価値がその実現に奉仕すると主張する制度の活動と同じものだと誤解される〉ことなのである。

二 小学校における問題

 二〇〇九年四月二五日の朝日新聞の『天声人語』にこういうことが書いてあった。『青い窓』という児童の雑誌にこういう詩が載っていたという。

お母さんが車にはねられた
お母さんが病院のれいあんしつにねかされていた
お母さんをかそうばへつれていった
お母さんがほねになってしまった
お母さんをほとけさまにおいた
お母さんをまいにちおがんでいる
  (『青い窓』掲載の詩 小学校4年生 「天声人語」より転載)

 この子は詩の中で一度も「悲しい」とは書いていない。しかし、その悲しみは切々と伝わってくる。それはこの「お母さん」の繰り返しが効いているのだ。ところが担任の教師は「お母さんは一回でいい」と指導したそうだ。しかし、子どもはかたくなにそれを聞き入れなかった。そこでその教師は編集者にどうしたものかと相談したそうである。
 この詩を直させようという教師がいたということはひとつの驚きである。主語は一回でいい、とでも言いたいのか。その教師の文学力の貧困さについて議論するのはよそう。しかし、自らの貧困さを顧みず、子どもに意味不明の指導をしようと考えることの問題だ。そうやって作品をいじられた子どもが詩を自己表現の方法だとは思わなくなっていくだろう。創造の芽は教師によって潰されていくのである。この教師にとってはこのような雑誌に自分の指導した子どもの作品が載るのはひとつの業績なのかもしれない。子どもの詩をそのような成果物としてしか見ていないところにこの教師の発想がある。
 しかし、詩は子ども自身の感情の発露であり、詩の中に子ども自身の悲しみを読み取り、感じ取るものであるはずなのだが、この教師は何を子どもの詩の中に見たのであろうか。ここに前回示した「芸術教育にできること」の意味があるのだと言える。

二 中学校の管理教育

 中学ではもっと管理的である。
 某新聞社から電話がかかってきた。それはある親から苦情が来たのでどういうことか教えてくれ、というものだった。その親は高校入試を控えた子どもがいるのだろう。高校入試の願書の締切が十二月末なのにA君は正月明けでいいというふうに教師に言われたのだと言う。それは不公平ではないか、という苦情のようだった。記者氏は高校入試の仕組みがおかしいのかと思って訊いてきたのである。
 しかし、問題となっているのはは左のような事情のことであった。
 中学校では生徒の入試願書を提出以前に学校で預かり、チェックしてから一括して申し込むことにしているようなのだ。それでその中学校では十二月末に願書を書かせて「締め切った」わけなのだが(親にとってはこの時点が締切)、A君はいろんな事情で決めきれず中学校の某教員は正月明けまで待ってやると言ったのだということのようだった。つまりは新聞記者の期待していたように高校入試の制度上の問題ではなく、教師個人の進路指導の問題でしかなかったのだ。当然、その記者にとっては親と教師の痴話喧嘩みたいなもので記事にしようのない話でしかなかったのだ。電話の向こうから落胆の吐息が聞こえた。この事実は是非記事にして欲しいくらいの問題を孕んでいると思ったが、それは記者には伝わらなかった。
 高校入試というのは義務教育を終えた人間が自分の人生を踏み出す第一歩のイベントだ。そして高校入試は中学校の問題ではなく子どもたち一人ひとりの個人的な問題なのだ。そのことを忘れてはならないのだが、この中学校ではちがうようだ。この中学に限らず、現在の中学校の多くでは生徒の受験の結果には高い関心を示すが、生徒自身の人生には関心を持っていないように思える。
 高校の入学願書は子どもの個人の人生そのものだ。それを平気で預かり、管理するという神経が良識から逸脱している。おそらく受験先も三者面談とやらいうかたちで親と教師の談合で決めたにちがいない。ある学校では願書を生徒に書かせないところもあると聞く。もし書きまちがえて提出してしまったら一年を棒に振るかもしれない、という温情から出たもののようだ。いや書かせたにしても預かってチェックを入れるということ自体が個人の人生に対する介入だろう。子どもたちにとって入学願書は親と教師の問題であって、自分の問題ではない。(なにしろ苦情を言ってきたのは親であって子ども自身ではない)
 こうやって進まされた高校が子どもたちにとって魅力あるものにはならなかったとしてもおかしくはない。だから簡単に辞めてしまったとしてもおかしくはない。なぜならそれは自分の責任でしたことではないからだ。退学するときが初めての自己選択だと言っていい。しかも、決して前向きとは言えない場合のほうが多いだろうが。
 一年を棒に振ってもいいだろう。それだけの緊張感を持って自分の人生を左右する書類を書くことは義務教育を終えるにあたってもっとも重大な卒業試験なのかもしれない。そのことをその中学校はわかっていない。そして教育という仕事をほったらかして願書の管理という入試業務に走っている。これは公務員としては職務専念義務に反していることではないだろうか。
 話を少し戻そう。問題は入学願書という子どもの人生にかかわるものを親と教師が、ないしは学校が子どもを抱え込みすぎていることである。義務教育は子どもをおとなにして社会の一員と為すべき教育を行うところである。この行為を見る限り中学校がそういう役割を自覚しているかどうかはなはだ疑わしい。中学校を終える段階でおおむね親と教師は子どもを手放さなくてはならないのである。それが社会に対する責任だと言っていい。
 中学生はまだ子どもではある。しかし、十五歳には十五歳の人間の眼があり、価値観がある。それは尊重すべきであるし、いつまでも年長の人間が正しいわけではない。十五歳の人間の意見を聞く耳と十五歳の意見を言う力、この二つは両輪である。聞く耳がなければ意見を言う力は育たない。教師の力量が試されるのはここである。
 義務教育とは何であるか。十五歳の若者がこの社会で生きていくことができる人間的としての完成教育と考えなければならない。だからそれは権利なのである。

三 高等学校での学びの形骸化

 高校ではもっともっとすごいことになっているようだ。近頃、大学に入ってくる学生は習ったことしか知らないことを自信満々に語るようになった。世界史の未履修問題が話題となってしばらくたつが、受験のために受験対策用の知識を詰め込もうという姿勢が常識化していることの証左であろう。それが教師の口から当然のように伝えられるから、自分で判断するようには育っていない高校生たちはそのまま素直にそういう学び方をする。
 このことも僕はかなり以前から繰り返し言ってきたのだが、そういうやり方はアナログコピーを繰り返すことと似ていて、だんだん薄くなるのと同じように教師よりも薄い知識の人間しか育たない。
 失礼な話で恐縮だが、怒らないでほしい。もとい、高校の教師の学力が日本の知の先端にある例は多くはないだろう。しかも、大学卒業後知的研鑽に励んでいる教師はどれだけいるだろうか。その教師が自分より薄い知をコピーしていってどうなるのかは目に見えているだろう。低学力というのはこういう単純なところから来るのだ。
 学生が本を読まない、とぼやいていたら、「本を読む暇があったら勉強しろ、と高校では言われてきたので、何を読んだらいいですか」と言う学生に出会ったのはかれこれ15,6年前になるだろうか。その間、日本の教育はそのような負の再生産を続けているのだ。
 この手の教育は知の秩序を乱すような余計なことは教えない。生徒に疑問を持たせず、知の廃棄物を与えていくに限るのだ。たとえば物理を教える。受験対策とか、問題を解く、という観点ではなく物理の知を伝えている教師がどれだけいるだろうか。物理学の面白さは物理的事象との出会いにある。その意味が伝わらずに数学の延長としての問題の解き方を教えたところで知的関心は高まらない。知的関心のないところに新しい知は育たないのだ。東大進学率の高さを誇る東京の某進学校では理科の実験を重視していると聞いたことがある。実験を指導するには教師に高い能力が必要となる。なぜなら試験問題の解法ではなく、自然科学の研究体験がそこにあるからであり、その体験こそが知的体験なのである。
 先ほどのお怒りをもう一つ逆撫でしよう。教師というのは人にものを教えるのでついつい高いところから教えるようになる。お前もそうだろう、と言われたら、そうかもしれないと答える、かな。高いところから教えるのはたぶん年齢とかキャリアの分をそれなりにくすぐってもらいたいからで知の中身が優れていることを主張したいわけではない。
 改めて教育学の第一歩を言っておきたいが、教育というのは自分より有能な人間を育てることも重要な仕事だということだ。大学においては教師が自分の知識の注入だけを行っていては学生は全く伸びない。与えた知をもとに自分で考える時間と場を用意してやることが重要なのだ。そのために大学では実験や演習が存在し、ディスカッションや論文の執筆が組み込まれているのだ。
 しかし、高校では愚かなアナログ・コピーのためにひたすら時間を注ぎ込もうとしている。ゼロ時限があり、補習があり、生徒たちから時間を奪うことでコピーを完成させようとしている。無駄な努力でしかない。どうせあなたより賢い生徒は育たないのだから。もし育ったとしたらその生徒はあなたの言うことを聞いていなかったか、自分の時間を無理に作ったのだろうね。
 高校時代に必要なのは知的関心だ。大学を目指すものは学問に対する好奇心、社会に出るものは職業に対する好奇心を持っていることがまさに「生きる力」になるのだろうよ。読書を通じての知への接近、社会問題と正面から向き合うことで得られる社会的な知、科学との出会いがもたらす知。そうしたものが高校生活の中でどうしたら得られるか。教師には与えられるわけがない。教師にはそれを喚起し、支援することしかできない。ていうか、それができるのがプロ=職業としての教師というものではないだろうか。



前学期末のことだが、僕の講義の試験に不合格となった学生からメールが来た。「自分は評価がFであったが、それだとGPAの評価が下がり、将来の進級にひびく。だからDにしてくれないだろうか。自分はテキストも買ったし、授業にもきちんと出ていた」というものだ。僕はさっそく返事をした。「テキストの90 頁を見るように」。そこにはイリッチの上記の説明が記してあり、皮肉なことにそれはこの学生が不合格となった試験問題に出た部分でもあった。


問題4 イリッチの言う「学校は、生徒たちが過程と実態を混同するように学校化する」内容を具体的実例を挙げて述べよ

この背景には今大学が行っているGPA制度というものの影響がある。これは各科目
の評価点と単位数を絡ませて4 段階のスコア化したもので、学生を序列化するのに都合がいい。外国の大学などとの共通スコアを意識してかやたらと導入する大学が増えてきている。これは文科省が背後で推奨しているのだ。文科省が推奨する理由は大学の社会的責任として評価基準の明示と厳格な成績評価をするべきだというもっともらしい理由による。「もっともらしい」というのはイリッチの言ったまさに「進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること」のことだ。これを世の人々は真に受けてしまうので「もっともらしい」のだ。大学での評価は教員が見所があると思えばいいものであるし、研究能力などと言うものは点数では絶対にはかれない。いや、時として逆行することすらある。文科省の役人も、その言葉に「もっとも」と思ってしまう教師も親も世間の人々も皆学校化の論理に埋没してしまっていると言っていいだろう。

このようにイリッチの言ったとおりに学校化は進行した。学校が学校である限り、社会の学校化は必然でもあったのだが、このところ(イリッチ以降、ていうか、70 年代以降かな)促進させてきた要因、もしくは付随してきた現象がいくつかある。思いつくままあげてみよう。まずは親による子どもの私物化があげられる。これは少子化云々以前の問題であり、核家族化以後の問題である。おそらく家族のあり方が歴史的に変化しているのだろうと思う。子どもは親の私物となり、親の希望を満たすものとして位置づけられるようになった。だから教育の現場は親の意向に沿うことにならざるを得なくなってくる。しかも、親世代には未体験の世界に対して親の経験の延長上で指図をするようになっている。学校の問題で言えば、後期中等教育への進学率は70 年代に80 %を超えるようになった(それでもそんなものだったんだ)。それまで義務教育以上の体験のない親たちが後期中等教育に発言し出すことになる。大学教育はなおその落差が大きい。そして高校も大学も親の声には異論を唱えられずそれを受け入れていくようになった。学校化現象はある種の学校幻想を生みだす。イリッチの言う「進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること」という混同はまさしくこのように行われるのである。なぜならば学校の(いやらしい、かつ最近は流行の言い方をすれば)ステークホルダーたちは進級と免状にしか関心がないからだ。だから「手をかければかけるほど、よい結果が得られる」という学校化信仰が拍車をかけて注がれてくる。そしてそうした圧力に教員たちは抗しきれず、手をかける側にまわってしまう。それどころか進んで手をかけることに生き甲斐を持ってしまうのだ。教育には何かをすることの一方で何もしないという時間も必要だ。そうした緩急の妙というのが教師の力量であったのだが、急のみだけが評価の対象になり、緩は評価されない。なにしろポイントにカウントしにくいからだ。何時間教えたか、ということにのみ関心が向き、質は後回しになる。結果的に子どもたちは学びの主体性をどんどん奪われていく。多様な知的好奇心は剥ぎ取られて受験合格というゲーム的な達成感のみに置き換えられていく。まるでmixi で流行の漢字ゲームのようにである。いずれにせよ学校化の目指すところは子どもをおとなにしないことに尽きる。親も教師も常に手をかけ続けるから子どもたちは自らおとなになる契機を失ってしまう。おなかが痛くなって総理を辞めた人などを見れば、おとなになれないままに社会人となり、そのまま老いていく人間が増えているのだ。加えてまずいことに「学校化」された社会ではとりあえず「免状」を取ってしまえば学ぶ必要はなくなるから、その段階でおとなは学ばなくなる。学びから卒業してしまうのである。学校化の過程が終わった人間にはもはや学ぶ目的がないからだ。だからおとなは子どもたちの模範にならないのである。親はもちろん教師たちがどれだけ学ぶ生活をしているだろうか。あるところから聞いた話では本が売れないようである。いわゆる町の本屋に行けばマンガ本と週刊誌ばかりが並んでいる。最近は受験参考書ですら売れないらしい。なぜならば受験産業がそういうものまで用意して配布しているからだ。こんなことはいくらあげてもきりがない。
posted by 河東真也 at 15:32| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

お暑い中でご苦労さん

 今年の夏は観測史上最も暑かったったそうな。この原稿を書いている9月になっても猛暑日が続いている。にもかかわらずいくつかの学校では運動会やら体育祭やらをやってたのには驚いた。暑い中でその運動会やら体育祭の練習をしている学校もあるんだろうね。
 それにしても運動会って何のためにやるんだろう。このくそ暑い中でさ。
 もとより運動会の始まりについては亡くなった福岡教育大学の平田宗史さんが明らかにしている。平田さんによると海軍兵学寮にやってきたイギリスの顧問団長のダグラスArcbald Lucius Douglas という人が「イギリスではAthletic Sportsというものがあって、種々の競技をなし、体育とレクリエーションの成るものであるから、これを実施されたい」と申し出たことがそもそもの始まりだったという。それで、Athletic Sportsを「競闘遊戯」と和訳して実施したのが明治7(1874)年3月21日のことだったそうな。
 そのときのプログラムを見ると18種目が並んでいる。最初は「雀雛出巣(すずめのすだち)」と題され、「十二歳以下ノ生徒ヲシテ百五十「ヤード」ノ距離ヲ疾駆セシム」とあるから、150ヤード(約137m)の徒競走ということになる。「神鷹捉?(わしのいなとり)」は「豕ヲ放チ奔馳ヲ追ヒ尾ヲ捉シテ之ヲ獲ルヲ努メシム」とあり、豚追い競争のことであるし、「須浦汲潮(すまのしほくみ)」は「頭上ニ水桶ヲ戴キ疾駆セシム」もので水桶競争とでも呼べばいいのであろうか。他に二人三脚、棒高跳び、三段跳び、肩車競争と思われる内容の種目があり、見るものを楽しませたらしい。
 平田さんはこの原型がイギリスにあり、祝祭日のイベントとして行われていたことをイギリスの文献から突きとめているのだ。まあ、もとよりお祭り騒ぎになるべきものだったんだね。
 このようにして始まった運動会だったのだが、これに軍隊的な演習の要素が盛り込まれることもしばしば見られるようになった。おそらくは軍隊的な教育を学校教育に取り入れようとした森有礼文相の施策の影響なのだろう。紅白に分かれての演習のスタイルがとられるのは軍隊的な影響のあらわれで、この頃からよく見られるようになった。
 とは言え、運動会がさかんに各学校で実施されるようになったのは20世紀に入る頃からだった。この頃から運動会はだんだんと地域のお祭り的な様相を示しはじめ、見て楽しむイベントとなっていったのである。それは本来の運動会の趣旨でもあるし、お祭りはみんな大好きだということかな。
 ところで、ちょっと話はそれるけれど、もとい人間の生活する集落(=ムラ)は自然村といって自然に人が群がって出来たものだった。そこでは伝統的に村の祭りが存在したんだけど、そうしたムラのあり方は近代国家の構築をめざす明治政府にとっては国家統一の妨げになると考えられたんだな。それで、いったんムラを解体して再編するということを繰り返したのである。廃藩置県(明治4年)、大区小区制(明治5年)、三新法(明治12年)、市制及び町村制(明治22年)なんかがそうだ。そのために伝統的な村の凝集力が失われてしまったのだった。しかし、結果的にこれは国家にとっても村人にとっても困ったことであった。
 そうした中で運動会は村人にとって格好の娯楽であり、新しい村の凝集力となったのだった。村人は学校で行われる運動会にお弁当や酒なんかを持って集まり、まさにお祭り気分でその日を楽しむようになった。ほぼ花見感覚と言ってもいい。このことによって凝集力を失った村は今度は学校を中心として再び一体となっていく。学校と地域が連携しはじめたと言っていいだろう。運動会は新しい地域作りの救世主と言ってもいいイベントとなったのだ。吉見俊哉氏はこの現象を「学校の祭りと地域の民俗的な時間が、日露戦争の頃から共振しはじめ、学校の祝祭日が民俗的な感覚で受容されるようになる反面、地域の時間の流れの中に学校の時間が年中行事として浸透していくのである」と説明している。そして運動会の開催は天長節(11月3日)や陸軍記念日(3月10日)、海軍記念日(5月27日)といった春夏の祝祭日に行われることが多かったのだが、これも学校を核として地域が国家に再編成されていく過程と見ればわかりやすいだろう。
 この運動会が戦時下に入ると再び軍事色を帯び、娯楽要素を除き、体育会とか錬成大会とかに改称して、観客を締め出していくようになったのだ。
 白幡洋三郎氏によれば「明治時代、『花見』『遠足』『運動会』は、すべて同様の催し物だった。何を主題に掲げるかによって命名にバラエティーがあったにすぎない。その本質は運動と娯楽との共存であり、スポーツとレクリエーションの未分化であった」のだそうな。ああ、昔はよかった。

 参考;吉見俊哉/白幡洋三郎/平田宗史他『運動会と日本近代』青弓社1999
posted by 河東真也 at 02:41| 福岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

鍛えるのはお好き?

 今、サッカーのワールドカップを横目で見ながら書いているのだが、ワールドカップがこんなに燃えるのは、単に世界最高水準のプレイが見られるからではない。それなら最高水準の選手を集めたクラブチームの試合を見た方がいいに決まっている。ワールドカップが燃えるのは国別の対抗試合だからだ。国と国とが闘うところにワールドカップの醍醐味があるのだ。そんなことを言うと「ワールドカップは愛国心を喚起するからきらいだ」なんていう偏狭な精神のお方もいるかもしれないが、こういうときに目一杯愛国心でも何でも振りかざしてサッカーに熱中するのもけっこうなことだ。これで世界平和が保たれると考えれば、悪いことではない。
 おかしなことを言ったと思うかもしれないが、近代スポーツの発祥はこのあたりに由来するのだ。
 1688年の名誉革命で権利の章典が作成され、以後イギリスでは議会制度が始まったということは世界史で勉強したはずだ。議会制度は民主主義の基本だが、これの意味するものは暴力による政権奪取を否定したことなんだな。つまり、それまでは政権を取るのは暴力によるのがあたりまえであった。しかし、暴力で政権を奪うと負けた側の遺恨がいつまでも残るし、人の命がむやみに消費されることになる。それで、議会で多数派を取ることによる政権交代のシステムが成立した。これが議会制度である。武力ではなくルールに基づいた駆け引きで多数派を制していこうと画策するのであるから議会制度は政治をゲーム化したものだといえる。近代スポーツといわれるものはこうしたゲーム化した政治を身体化したものとして登場したのだ。
 言い換えるならば、近代スポーツはり民主主義そのものなのだ。このことは学校でのスポーツを考える上でもとても重要なことだ。
 学校教育の世界で体育会系というと上位下達の世界で、民主主義とはちょっと距離のあるような気がしないわけでもない。ビシバシと鍛え、先輩には絶対服従なんていうのもよく聞くし、体育会系の人間は脳みそまで筋肉でできているというような悪口も耳にしたことがある。
 しかし、大学では体操部の顧問を四半世紀務めている体育会系教員の僕としてはそういう誤解をここでは解いておきたい。スポーツは民主主義なのだ。
 しかし、日本ではスポーツがある段階でゆがんで利用されるようになったのだ。日本では近代スポーツは学校を通じて欧米から入ってきた。その頃のスポーツは将来の紳士たちの社交として広まったのである。
 ところが日本が軍国主義の中に徐々にはまりこんでいくとスポーツは国民の軍事化に貢献するものへと変質させられるようになったんだな。つまり教育の手段として利用されるようになったのだ。
 桑田真澄という人を知っているだろうか。そう、あの読売ジャイアンツで投手をしていた桑田だ。彼は今年早稲田大学の大学院で修士号を取ったのだ。桑田氏は修士論文の中で、プロ野球選手から採ったアンケートを分析し、その結果、日本の野球選手の育て方に疑問を投げかけた。桑田氏は現在の学校野球部で行われている野球は飛田穂洲(とびたすいしゅう)の提唱した「野球道」が今もまだ生きていると言うのだ。
 飛田穂洲とは戦前早稲田大学の野球部の監督を務めた人で朝日新聞の記者としても活躍した人だ。当時野球は敵性スポーツとして軍部ににらまれた。そこで飛田は「野球精神は一言にしていえば、死の練習によってつちかわれる。野球部愛、母校愛を強調することはとりもなおさず国家愛を教うるものであり、一致団結の団体精神は、一丸となって敵に当たるの心意気を示唆し、犠牲的精神は、喜こんで国難に殉ずべき暗示を与えるものに外ならぬ」といかに国家のための人間を作るのに役立つのかを主張して軍部の圧力に抗したのだと言う。そして野球道を提唱した。それは「練習量の重視」「精神の鍛錬」「絶対服従」なのだと桑田氏は言う。
 確かに飛田は野球を軍部から守った。しかし、それは野球を人間形成、つまり教育に利用することによってであり、スポーツの本質を歪めるものだったのだ。桑田氏はこの飛田の「野球道」が戦後も学生野球の中に残っているのだと指摘する。他のスポーツがよかったわけではない。他のスポーツは敵性とされなかった段階で帝国臣民の形成に役立つものとしてすでに魂を売り渡していたのだから。
 スポーツは戦争や暴力を行わずにルールを定めて楽しむゲームであり、スポーツそのものが平和と民主主義なのだ。スポーツは目的であって手段ではない。スポーツを手段にしたときスポーツは本質を見失い、民主主義の敵になるのだ。
 桑田氏は修士論文で飛田の野球道に替わるものを提唱しているが、それは彼の本を読んでちょうだい。
(参考;多木浩二『スポーツを考える』ちくま新書、桑田真澄・平田竹男『野球を学問する』新潮社)
posted by 河東真也 at 02:37| 福岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

社会科は暗記科目じゃない 社会科は暗記科目じゃない 社会科は暗記科目じゃない 社会科は暗記科目じゃない

 前回、最初の『学習指導要領』ができたころの事情を書いた。この『学習指導要領』で新たに示された教科のひとつが社会科だった。社会科は現在では地理、歴史、公民の分野について学ぶ科目だし、受験に際しては暗記科目とされてきた。ところが、社会科は戦後の新教育の目玉と言うべき教科だったのだ。なぜならば、社会科という教科は「民主主義社会の建設にふさわしい社会人を育て上げようとする」と昭和22年3月に発行された『学習指導要領 社会科編』(試案)には書いてある。だから、社会科はその当時、社会改造科とも呼ばれていたようなのだ(大田堯編著『戦後日本教育史』)。
 さらにこの『学習指導要領』では「社会科は,学校・家庭その他の校外にまでも及ぶ,青少年に対する教育活動の中核として生まれて来た,新しい教科」なのだ、と記されている。そして、国語、数学、理科等の科目との関係についても「社会科の授業の中に,他の教科の授業がとり入れられ,また他の教科の授業の際に,社会科のねらいが合わせて考慮されることは,当然のことであり,かえってその方が望ましいのである」としていて、カリキュラムの中の核となる教科と位置づけられていたのだ。
 当然暗記科目なんかじゃなかった。従来の修身、公民、地理、歴史といった科目がやっていた知識の詰め込みのようなやり方は真っ向から否定していたのだ。じゃ、どんなことをやろうとしていたのだろうか。新しい学校制度が始まる前の昭和22年1月16日、歴史的な社会科の実験授業が文部省の監督下で行われたのだ。場所は東京の新橋駅近くの桜田国民学校2年生の教室だ。29歳のまだ若い女性教師が担当した。この教師がやって見せたのはなんと郵便ごっこだった。子どもたちが手紙を書き、郵便局で切手を買い、これを汽車で運び、宛先地に配達し、また返事を書いて送り返す、という過程を子どもたちがごっこ遊びで体験する中で読み書きや計算などを学びつつ、社会の仕組みを理解していくというものであった。
 ということで、この実験授業は大成功だったみたいだ。それに気をよくした文部省は全国にこの実践をを広めていったという。
 ところで、僕の手元に『新教育研究発表要録』という劣化して壊れそうなガリ版刷り(どんなもんだか知らない人も多いんじゃないかな)の冊子がある。福岡第一師範学校女子部附属国民学校と書いてある。これは現在の福岡教育大学附属久留米小学校の前身だ。なんと桜田小学校の実験授業から一週間後の昭和22年1月23日~25日の三日間にわたって行われた研究発表会の要録なのだ。すごいだろう。これはたまたま当時教員をしていた方からいただいた貴重な史料なのだ。
 で、これをひもといてみると、当時の新しい教育への試みがいろいろ詰まっている。
 中でも社会科指導案として発表されたものは「楽しい私達の学級にする話合」(初等四年女子)、「新憲法」(高等二年女子)、「久留米の市会」(高等一年女子)、「私達をたすけてくれるもの」(初等一年男女)であった。そして驚くべきことに2日目に社会科ではなく自由研究(これも新設の教科なのだ)の指導案として「久留米の郵便局」(初等四年以上)という研究授業が行われている。これは自由研究社会研究部指導案となっていて3人の教員で共同で取り組むものとなっている。まずは郵便局を重要な社会機構と位置づけて学年ごとに異なったテーマの研究をした後でやはり郵便局ごっこをして遊ぶようになっていたのだ。さすがに附属小というところだ。久留米は全国の先端を行っていた!
 で、「新憲法」という研究授業。研究発表会では二回授業をしているのだが、一回目は前史として明治の新政についての授業なのだが「明治天皇の深き大御心を明かにする」という内容になっている。その上で新憲法の制定と内容について学ぶことになっているのだ。なんと新教育とは言っても人間の頭の中はそう簡単には変わるものではなかった。
 ということで、話を桜田国民学校に戻そう。一人の若い女性教師がこの実験授業という大役を引き受けたのは、彼女は以前に同様の教育実践の経験があったかららしい。それは合科教育というもので、大正新教育の中で始まり、戦時下の国民学校でも行われていたからである。国民学校では国民科、理数科、体錬科、芸能科と錬成のために教科を四つにまとめていた。ちなみに国民科の内容は修身、国語、国史、地理であり、戦後の社会科とほぼ重なる教科だったのだ。やはり人間の頭の中はそうそう変わるものではないということなのだろう。戦後民主主義の期待を載せた社会科も中身の変わらない教師たちによって形骸化する運命にあったのだ、ということかな。
 そういえば『学習指導要領 社会科編』(試案)には「(社会科は)青少年の生活に希望と生気とを与えるものである」とも書いてあった。読者諸君!教育が子どもたちの未来に希望と生気を与える日は果たして来るのだろうか。
posted by 河東真也 at 02:29| 福岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

2009年09月29日

新しい国歌をつくろう、ってか

 以前「君が代」について書いたことがあるけど覚えているかな(拙著『学校は軍隊に似ている』38頁に所収)。「君が代」は国歌ではなかったが、国歌のように歌われることで大きな歴史的役割を果たしてきた。
 しかし、敗戦となれば、その価値はぐっと下がった。しかも、戦争にうんざりしていた国民にとって日の丸や君が代はかなりうざい存在だったみたいだ。とにかくモノのない時代でもあったので、戦争前に各家庭で掲揚されていた日の丸は風呂敷や、あろうことかおむつなんかに転用されていたという話もある。
 それならば新しい国旗と国歌を作って戦後民主主義の改革をすすめてもいいものだったと思うんだが、誰もそんな気分にならない。まあ、喰うのに精一杯だったからね。そんなときは国旗や国歌なんかにかまってはいられないんだな。まあ、旗はおむつにできても、歌は使いようがないし、転用もできない。一部ではGHQの天皇制堅持の方針の中で歌われてもいたが、一般には、まぁ、忘れられていたとでも言っていいのかもしれない。
 ところが、だ。1950年5月に天野貞祐という人が文部大臣に就任した。吉田茂が懇請して入閣させた哲学者だ。天野は1937年、まさに日中戦争勃発と機を同じくして『道理の感覚』という本を出したんだが、その中で痛烈に時代を批評した。殊に修身教育(教員)や軍事教練(軍事教官)を批判している部分ところがあって、関係筋から袋だたきにあって自主絶版するという経験を持ち、戦後は教育刷新委員会の委員として教育基本法の作成に当たった人物で、自由主義者として知られていた。天野は文相になって5ヶ月ばかりたった10月17日に談話を発表した。それは国民の祝日には「国旗を掲揚し、国歌を斉唱することもまた望ましいことと考えます。又、各官庁、各家庭においてもぜひともこれらの祝日には国旗を掲揚し、祝意をしめされるようおすすめします」というものだった。そしてこの内容は全国の教育委員会に通達されたのだった。
 これに日教組は反発した。日教組が反発したのは国旗・国歌ではなく、「日の丸」・「君が代」だったのだ。じゃあ、「君が代」ではない国歌をつくればいいだろうということで、新国家制定の運動を始めることにしたのだ。当時法制部長だった槙枝元文が天野文相に抗議に赴いた際に、「新しい国歌を作りたい」と日教組の考えを伝えたところ天野も賛成したのだそうな。なもんで、日教組は翌年6月の第8回大会で新国歌制定運動を提唱したのだ。そして公募の結果、東京の小学校教員原泰子作詞、新潟の中学校教員小杉誠治作曲になる「緑の山河」が選ばれた。日教組(福教組)に入っている方は今でも歌われているからよく知っているだろう。
(一)
 戦争超えて たちあがる みどりの山河 雲霽れて いまよみがえる 民族の
 わかい血潮に 天を往く 世紀の朝に 栄あれ
(二)
 歴史の門出 あたらしく いばらのあゆみ つづくとも いまむすばれた 同胞の
 かたい誓に ひるがえる 平和の旗の 指すところ ああこの道に 光あれ

 ところがこの「緑の山河」は日教組の歌という性格がつよく、広く国民に広がることはなかった。
 しかし、独立後の1953年1月、壽屋(現サントリー)の専務だった佐治敬三が「新国民歌」の募集を提案したのだ。これには50,823の応募があり、採用されたのが「われら愛す」という曲だ(芳賀秀次郎作詞、西崎嘉太郎作曲)。
 一番だけ挙げておこう。

 われら愛す 胸せまる あつきおもひに この国を われら愛す
 しらぬ火筑紫のうみべ みすずかる信濃のやまべ
 われら愛す 涙あふれて
 この国の空の青さよ この国の水の青さよ

 しかし、この「われら愛す」も盛んに広められたが、数年後には人々の耳から遠ざかっていく。それはやはり日教組とか壽屋といった特定の団体・企業が募集したもので、国民の総意というわけにはいかなかったからかな。やはり、国歌は国がつくるものなのだろうか。なにしろ、国を愛する歌だからね。

参考文献;田中伸尚『日の丸・君が代の戦後史』岩波新書
生井弘明『「われら愛す」―憲法の心を歌った“幻の国家”』かもがわ出版
槙枝元文『槙枝元文回想録』アドバンテージサーバー
(文中敬称略)





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赤い鳥逃げた?

 「あゝ、日本の児童は入学の当初から呪われている」と北原白秋は日本の唱歌を嘆き、その唱歌の精神で形づくられているところの日本の学校を嘆いた(承前)。実はこの頃の白秋は子ども向け雑誌『赤い鳥』に自作の童謡を発表し、また子どもたちが投稿してくる詩の選者もつとめていたんだな。その事情をちょいと説明しよう。
 大正7(1916)年2月16日、親友の鈴木三重吉という男が白秋の家に来た。何か頼みごとがあるようであった。訊くとそれは新たに子どものための雑誌の創刊に関することであった。つまり三重吉は白秋に童謡をつくれと言ってきたんだな。歌人として名をあげていた白秋に童謡を作れと言うのは、まあ、親友だから言えたことかもしれない。
 この鈴木三重吉がこの雑誌を創刊したことについて「すず伝説」というのがある。鈴木三重吉は夏目漱石門下の小説家で、なかなか売れないものだから中学教師をしながら小説を書いていた。そして長女すずが生まれた。すずに物心がつくようになると三重吉はすずのために読んで聞かせる書物を探したが、なかなかそれにふさわしいものはなかったんだな。そこですずのために自ら読み物を書いてやろうと思った、というのがいわゆる「すず伝説」として伝わっている話である。
 その真偽はともかく、その当時の子ども向けの読み物は巌谷小波なんかによって拓かれた少年文学というものが主流であった。名前くらいは聞いたことがあるだろう。これはこれでおもしろいものなのだが、三重吉は不本意であった。三重吉によれば、それら少年少女向けの読み物や雑誌は俗悪な体裁をしていてとても子どもに買って与えるものとは言えなず、内容も下品であり、表現も下卑ている、と言うのである。三重吉は日本人はこれまで哀しいことに子どものための芸術家を持ったことがないとまで言い切り、芸術性を重んじた童話と童謡を創作する文学的運動として子ども向けの雑誌の発行を思い立ったわけだ。
 すでに歌人として名声を得ていた白秋はどうしたかというと、すんなりこの話を受け入れたようなのだ。この時の白秋は経済的な事情を含めて短歌に見切りをつけかけていた時だったらしく、すぐ翌日にはこの雑誌の名を提案する手紙を三重吉に送っている。雑誌は『赤い鳥』と名づけられ、その年の7月に創刊した。
 『赤い鳥』は画期的な雑誌だった。執筆者には白秋を始め、島崎藤村、芥川龍之介、泉鏡花、小宮豊隆といったそうそうたる顔ぶれを並べた。なんと芥川龍之介の「蜘蛛の糸」はこの創刊号に載せられた作品なのだ。「蜘蛛の糸」は知っているよね。桂枝雀が「茶漬えんま」という落語でそのパロディを演じているので一度鑑賞してごらん。ともかく『赤い鳥』はまもなく3万部という当時としてはたいへんな売れ行きを示すことになったのだ。
 ところで、『赤い鳥』のおもしろいところはそうした子ども向け文学作品を掲載したことだけではなく、子どもたちに作品を投稿させて掲載したことなんだ。そして、白秋は童謡や詩の、三重吉は綴方の選者をした。彼らは子どもたちから寄せられた作品に批評を加えて掲載するという形でものを書くことの指導をしていったのだ。白秋はそれまでの五七調といったような定型にとらわれず、自由に詩を書くように言い、それを児童自由詩と称して広めていった。三重吉も子どもが思ったこと、あったこと、言いたいことを口で話すように自由に書くように指導した。そして詩や作文を芸術として位置づけ、それらを創作することで人間性を高めていくことを目的とするようになっていった。
 ものを書くということはただ事実を伝達することではなく、自己表現であり、芸術活動なのだというのが二人のモットーだったのだ。それはこれまでの型にはまった表現や伝達のための作文とはまったくちがった分野を子どもたちに与えるものだったわけで、白秋が型にはめるのが大好きな学校を憎んだのはこういうことだったんだな。
 まあ、しかし、芸術性を求めた『赤い鳥』は都市中間層、つまりええとこのボンボンやお嬢さんが主たる読者だったこともあってその後伸び悩んだ。かわりに大衆向けの『少年倶楽部』が30万部以上も部数を伸ばし、世は大衆路線へとなびいていったのである。
 ああ、赤い鳥は何処へ飛んでいったの?
参考;三木 卓『北原白秋』筑摩書房 2005
   河原和枝『子ども観の近代』中公新書 1998年
ちなみに標題は1973年の東宝映画『赤い鳥逃げた?』から借用した。
      (藤田敏八監督、桃井かおり・原田芳雄主演だけど、知ってた?)
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あゝ、日本の児童は入学の当初から呪われている

 前回、山本鼎のことを書いた。
〈不自由の反対が自由〉
 そう言って、山本鼎は児童自由画というものを提唱した。山本は画家である。美術の専門家だから美術が学校の中で図画なるものに歪められ、「何かの役に立つもの」として扱われたことが不自由の原因であることを山本は見抜いていた。確かに今でも答の決まっているように思える数学や、法則があるかのように見える理科、覚えてしまえばいいような社会科、いずれも何かの役に立てようと扱ったところで不自由になってしまう。学校というところはどうにもそうやって何もかもつまらなくしてしまうところらしい。しかもそれは単につまらないかつまらなくないかということではなく、子どもの人権にかかわることなんだな。
 で、小説風に…
 山本鼎の妻家子の兄である隆吉は鼎の話を聞くと、自分の少年時代を思い起こした。裕福な酒屋の息子として生を受けた隆吉は乳母に連れられて始めて学校の門の前に立ったとき恐怖で泣きわめいたという。彼は首席を通して尋常小学校を卒業するが、にもかかわらず、卒業式の日に学校の門を出るとき旧友たちと学校に向かって「バカ学校!」と叫んだという。それはなにゆえであったか。隆吉は一篇の唱歌を読み解いたとき、その理由がわかった。その唱歌は次のようなものであった。
学校
1.私の学校よい学校よ 教場広い 庭広い
  掛図やご本やいろいろな 珍しいものたくさんあって
2.私の先生よい先生よ 私たちをかわいがり
  読み書き算術いろいろな よいこと教えてくださいまして
3.私の友達よい友達よ 毎日仲良く元気よく
  遊戯やなにかいろいろな おもしろいこと一緒にやって
 読者諸君は何か感づいたかな。山本鼎の義兄である北原隆吉。何を隠そう、世に北原白秋として知られる歌人、詩人である。もちろん柳川出身だということは福岡の人間なら誰でも知っているだろう。白秋は山本鼎の影響を受けて「詩、絵画、音楽の三つの芸術が児童の美的情操を薫養する上で何より重要である」とかなんとか言ってこの「学校」という唱歌の分析を行ったのである。
 白秋の分析はきびしい。よい学校とはどんな学校か、よい教師とはどんな教師か、よい友達とはどういうやつか。こういう問いを投げかけながらこの唱歌はとんでもないまちがいを子どもに植え付けようとしている。設備の完備した学校が果たしてよい学校なのか、子どもたちを生き生きとさせるものについて語らずに外形的物質的なもので学校の良し悪しを歌っているではないか。よい教師とは…かわいがると言っても母親のような愛情があるか?ものを教えると言っても問題を解くテクニックだけで知識の中にある精神は教えていない。子どもの知識欲にひびくことはしていない。ただ、視学(指導主事みたいなもの)にべんちゃらを言い、自分の虚名だけにしがみついているじゃないか、と。そしてよい友達とは…よい友達とは歌詞のように仲良しだけでいいのか。この社会の公人としての関係性は与えられているのか。いないだろう。
 白秋は言う。この歌詞の中から浮かぶのは血の通っていない、紙製の教師や生徒が糊付けされて作られた人形の学校でしかないと。そして白秋は子どもたちを「その成人(つまり教師というおとなだ)の規定した頑固一点張りの教育方法によって絶えずその強圧と掣肘と束縛とを受けねばならぬ精神的幼年囚」だとみなし、その成人監守の下に建てられた児童の牢獄の中で、子どもたちは悲哀と失望と憤激と反感を感じざるを得ないだろうと指摘したのだった。
 そして白秋の出した結論は
〈あゝ、日本の児童は入学の当初から呪われている〉だった。
 現在のわたしたちの学校が白秋の批判した頃の学校と比べてどれだけよくなっているだろうか。よく考えてみよう。
参考;北原白秋「小学唱歌々詞批判」(『芸術自由教育』1-10,1921.11)
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芸術は教えられるか

 学校というところは何でも教えてくれる。だから教師は何でも教えられる。われわれの中にそういう驕(おご)りはないだろうか。……僕にはある。教師稼業をしていると、何でも教えるのが当然のようになり、つい滔々(とうとう)とあることないことを語ってしまう癖が身に付いていて、時折、真実を知っている人たちから顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまうのだ。
 先般知ったところによると、道徳のテストが出回っており、「福岡県内では、小学校46校、中学校5校で実施された」(朝日新聞、2008.4.10)のだという。それで偏差値まで出るそうなのだから笑止千万なのだが、嗤(わら)ってもいられない。この業界では、そういうものが通ってしまう恐ろしさがあるからだ。なにしろ、愛国心評価の通信表が使われていた土地柄なのだから。
 もっとも、自分の道徳性も知らずに子どもに道徳を教え、かつ評価しようなどという、大それた不道徳な方々が世の中には溢(あふ)れているようなのだ。
 道徳もさることながら、芸術的教科などというのも学校には存在し、これもまた数値化しにくい教科である。道徳であれ、芸術であれ、その中に価値を含んだものというのは評価が難しい。何をどのように評価したらいいのだろう、と悩むことなく、音楽や美術(図画工作)に点数をつけちゃってはいないかな。
 明治14年に出された小学校教則大綱には、図画が登場している。この頃の図画というのは、「眼力と手力を鍛え、斉整・清浄美麗の感性を育て、職業的に技巧と発明の想像力を起こさせる」と当時の指南書には記されていた。加えて、「博物・地理・幾何のようなものの形を扱う教科の役に立つ」、つまり、他教科の補助教科という位置づけも得ていた。その典型が、臨画という教授法であった。これは、手本を見て、位置や形などを手本と全く同じように模写する方法で、こういう教育が当時の学校図画教育の常識だったのである。これだと評価はしやすい。教師には楽である。
 ところが、こうした臨画中心の図画教育を批判した人物がいた。山本鼎(かなえ)という画家であった。山本鼎は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を出た後、版画家として活躍していた。失恋を機にフランスに留学して、モスクワ経由で帰国したのが大正5年のことであった。山本鼎は帰国すると、父親が医院を開業している長野県小県郡神川村(現在の上田市)に戻り、ここで学校教育の現場と遭遇する。彼は、臨画中心の図画教育に呆れ果てた。これはあまりに不自由な教育ではないか、と思って地元の教師たちと語り合い、大正7年12月、神川小学校で「児童自由画の奨励」と題する講演を行ったのである。
 山本鼎は、臨画中心の図画教育は不自由であるゆえにまちがいである、子どもの中には可能性の芽がある、それを育てるには子どもの目で捉えた自然や想像の世界を自由に描かせるように指導すべきだ、と訴えたのである。そして、児童自由画展覧会を開催するに至った。これはけっこう評判となり、彼は日本児童自由画協会を設立して、自由画教育の普及に努めた。
 山本鼎は、自由ということを強調したわけではない。臨画教育が不自由すぎるから、その反対として自由を言ったまでのことだった。模写では個性的表現が制限される。これではダメだと言うのだ。手本は自然であり、これを自由に描くことが大切であり、子どもをそこまで引き出すのが教師の仕事なのだと言う。
 ここには、教えこむという教師の常套(じょうとう)的姿勢は見られない。彼の指導は、子どもが自由に描くことのできるようにいろいろな講話をしたり、映画、幻灯、写真、実地見学など、子どもの感性を磨く学習を重視し、そこから絵画の技法を見つけさせるという方法を採った。
 もうひとつ重要なことは、山本鼎が図画教育の目的を何においたのかである。彼は、図画教育は美術教育であり、美術教育は美的感銘と想像力にある、即ち目的は美術そのものである、とした。何かの補助教科の位置から、図画教育をすくい上げたのである。それにしても、図画教育はおろか、現在の教科教育自体が何かの補助教科になっていやしないか。補助教科だから教師は教えこむことができるし、子どもの芽を潰(つぶ)すこともできるのだ。
 彼の立ち上げた日本児童自由画協会は、まもなく日本自由教育協会と改称した。そう、芸術を教えるとは、教育それ自身を意味していたのだ。以(もっ)て瞑(めい)すべしかな。

参考;上野浩道『芸術教育運動の研究』風間書房 1981
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2008年02月24日

新年はこころを引き締めて

 あけましておめでとうございます。
 年の初めはキリリと「こころ」を引き締めなければなりません。それには何と言っても「教育勅語」しかないでしょう。(はぁっ?)先般ある方が訪ねてきて「某教科書には教育勅語を載せていて、実にけしからん」といきどおっていました。確かにお怒りはごもっともなんですが、僕なんかは講義のときに教育勅語をプリントしてばらまいているくらいなので、むしろ「いい教科書かもしれない」なんて思っちゃったりして。教科書はよく言うように「教科書を教えるんじゃなくって、教科書で教える」って考えるのが妥当でしょう。そうでないと教師の力量は育ちませんから。
 で、その教育勅語ですが、あれはよくないと言いつつちゃんと読んだ人も少なく、国粋派の方々から「親孝行のように良いことが書いてある。その美しい日本のこころをダメにしたのは戦後教育だ」なんて非難されると、「そうかもしれない」なんて思う人だってけっこういるのです。で、教育勅語ってどんなものか読んでみようよ。なにしろたった315文字だし、紀元節も近いし。
 まず教育勅語は「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠二徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我力臣民克ク忠二克ク孝二億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実二此二存ス」(わてが思うに、わての祖先がこの国を作ったときに考えたのは忠孝という徳だ。我が臣民は忠孝ということに心を一つにして代々その美しさを整えていかないかん。それが我が国の教育の根っこなんだ)という部分からなる。で、続いて「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」(おまえら臣民は仲良くしぃ)「恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」(自分にきびしく人にやさしくしぃ)「学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ」(よく勉強して立派になりぃ)「進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」(そしたら進んで世の中のためになるように、そして国の言うことに従うこと)と臣民(=国民ではなくて〈臣〉民ですよ)のつとめとして立派な人間になることをあげているのだ。けっして単純に人間として立派になれと言っているのではない。親孝行程度のことを勧めるのなら教育勅語でなくてもいいだろう。
 で、肝心なのはここだ。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」(そしていったん何かあるときは国のためにたたかえ!それがわてのみならず代々の天皇家のためにもなるのじゃ)と言う。ところがここでミソが付いた。なんと文法上のまちがいがここで起きてしまったのだ。さて、わかるかなぁ。Hセンセみたいな国語のセンセだったらきっとわかると思うんだけど。
 実は「一旦緩急アレハ」と已然形になっているが、ここは未然形で書くのでなければならないところだ。「一旦緩急アラハ」とね。でないと毎日戦争中みたいなことになってしまうだろう。のちの人びとは教育勅語を有り難がっていたけれどもこういうぞんざいな作り方をしていたことはよく胸にとどめておこう。
 そしてまとめは「斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」(これが天皇家の真実の教えなんだから、臣民も誰がなんと言おうときっちり守ること)となる。この教えは絶対正しいという自信はたいしたものだけれど、「中外ニ施シテ悖ラス」、つまり国外でも変わらずにやれ、というのは侵略主義と言われてもしかたないよね。だから、こういうものが戦前の教育の実に巧妙な小道具だったことを忘れちゃならないのだ。
posted by 河東真也 at 15:51| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

民主主義の体験

 あけましておめでとうございます。一昨年末に教育基本法が作り直されるのを見過ごしてしまい、昨年は参議院選挙で大変動が起き、突然首相が職を投げ出したり、政界は大騒ぎだったね。今年もはや総選挙の噂が流れているけれど、国民の実際の関心はどんなものなんだろうね。
 こういう流れを横目で見ながら僕は日本の民主主義があぶない、と思うのだ。というのはこのところの選挙の投票率を見てみるといい。この15年くらいは衆参両議院選挙共に70%を超えることはなくなった。地方自治体の選挙なんて目もあてられない状況だ。殊に若い世代の投票率の低さは顕著だ。これはどうしてなんだろうか。ちゃんとした民主主義が育っていないのではないだろうか。
 何年か前に某県の中学校の社会科の授業を見た。生徒たちに模擬選挙をさせるもので、事前に教師が指名した候補者(男子生徒ばっかり)がチャラチャラした演説をしたところでクラス全員で投票するというものだ。一緒に見学をした学生たちは「おもしろい授業だ」と感想を述べていたが、僕は思わず「この学校に生徒会はないのかぁ!」と叫びそうになってしまった。
 『学習指導要領』をめくってみると、生徒会活動については「学校生活の充実や改善向上を図る活動,生徒の諸活動についての連絡調整に関する活動,学校行事への協力に関する活動,ボランティア活動などを行うこと」とある。しかも「教師の適切な指導の下に,生徒の自発的,自治的な活動が展開されるようにすること」という指導上の注意がついてね。しかし、戦前から生徒がこの程度の自治活動をするものはあった。それは校友会と呼ばれていたのだが戦時体制の中で解散させられ、学校報国団という形になって戦争協力の組織となってしまったという経緯があるんだな。
 これはまずいよね。それで戦後やってきた占領軍はこのような学校の生徒自治のあり方に疑問を抱き、生徒自治会を作るよう指示したという。そこでまもなく全国の小、中、高等学校に自治会と称する組織が発足した。指示を受けてのものもあったろうし、自発的に行ったものもある。來島靖生氏の回顧によれば修猷館高校では1947年の初夏あたりから生徒の中から自治的組織の立ち上げの動きが始まり、翌年に自治委員会を組織しているし、まもなく福岡地区高校自治連盟というものも結成されている。(『修猷館二百年史』)
 で、文部省としては、占領軍の指示で勝手に児童、生徒が自治会を作っていくのをほうっておくわけにはいかない。こうした動きを受け止めて学校教育の中に位置づけた。それを『中学校・高等学校 管理の手引』という出版物の中に書き込んでいる。そこには「各新制中学校・高等学校の管理には、実際に生徒を参加させるべきである」として特別教育活動(生徒会)を位置づけた。また、「『生徒自治』という言葉は、誤解と誤用の心配があるゆえ、決して用いるべきではなく、『生徒の学校の問題への参加』という言葉の方がよい」として生徒会という名称を用いている。何か自治という言葉におびえるところがあったらしい。
 とは言え、これに基づいて1949年に刊行された文部省学校教育局『新制中学校新制高等学校 望ましい運営の指針』には「特別課程活動の最も重要な目的の一つは、公民性の教育にある。もし学校の機構が独裁的になっていれば、その学校の生徒は民主的生活について何の価値あることも到底学び得ないであろう。」と生徒会活動の目的を明記し、「公民への教育は、単に政治についての本を読んだり、知識を得るだけでは達せられない。そのためには、生徒は、投票することによって投票ということを学び、実際に指導者を選ぶことによっていかにして指導者を選ぶかを知り、自分たちの事柄を取扱うことによってその取扱い方を学び、責任を与えられることによって責任ということを学ぶ。一言でいえば、なすことによってなすことを学ぶのである。」と断言している。
 つまり、文部省が自治会を教育的に読み替えた生徒会は公民になるための教育、すなわち政治学習の場だったのだ。いつのまにか公民としての教育を骨抜きにしていったのはいつからなのだろうか。投票率が落ちたのは1990年代に入ってからで、兆候は1980年代から見られる。その辺から察するに、たぶん1970年代半ばからの公民教育が変わったんだろうと思う。何が変わったのか。団塊世代のセンセイたちよ、胸に手を当てて考えてみて。今があたりまえになる前に。

posted by 河東真也 at 15:46| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

PTAはたのしい

 前回書いたように、学校が父兄会なんかを作って「学校と家庭との連絡を密にする=学校のただしさを親に伝えていく」というのが日本の学校教育の基本だった。父兄会だけじゃない。母姉会というのもあったし、保護者会、学校後援会というようなものもあった。まあ、父兄という言葉には母親はいないし、母姉という言い方は明らかに女性の役割を固定化したイメージがあるよね。学校後援会なんていうのはそうした戦前の学校と親の関係を象徴的に示した組織名だ。つまり、学校、教職員の支援(金銭面も含む)をする組織であり、学校に従属する団体だったのだ。結果的に学校が戦争に向けて突っ走っていったときに親が子どもの命を守れず、逆に子どもを親の手で戦場に追いやることになってしまったのだ、とも言える。
 校長の言いなりに学校に奉仕することだけを考えているPTAがあるとすれば、気をつけた方がいい。また、PTA新聞を検閲したがる学校があれば気をつけなければならない。そういうところから学校がおかしくなっていくし、それは子どもの命にかかわってくるのだから。
 PTAというのは日本語では父母教師会(最初は「父母と先生の会」と言った)、戦後に始まったものだ。敗戦直後の日本にアメリカから教育使節団というものがやって来て日本の教育についていろいろ意見を残していった。それを『米国教育使節団報告書』というのだけれどその中にPTAのことが書いてある。それは「子どもたちの福祉を増進し、教育計画を改善するため」の「親と教師の団体」であり、「成人教育」の場であるということだった。この意見に基づいて文部省は1947年3月に「『父母と先生の会』資料」なるものを都道府県に配布した。これがPTAの出発なのだ。
 「『父母と先生の会』資料」にはPTAというのは子どもの幸福の実現のために親と教師が共に学び、手を取り合って行政に働きかけていくのが目的だというふうに書いてある。そして戦前の学校後援会や父兄会が、学校の教師が説明や注意したことを親がうけたまわるという受身的な立場であったことを批判し、教師と父母が対等の立場になることを要求していた。だから教師は自らPTAの会費を払って会員となっているのだ。それが負担という人がいるかどうかは知らないが、そのことで教師は学校という組織や教職員組合といった柵(しがらみ)から離れ、個人的立場で親と同じ目線で子どもの教育について語れるという自由を得たのである。親もまた、教師と対等に自分の子どもの教育を語れるようになったのだから,これもまた学校教育に対する権利と自由を得たのだ。PTAは自由を享受(enjoy)する組織なのだ。
 ところが、自由というのは憧れだけれど、いったん手に入れてしまうと持て余すものみたいなんだな。親も教師も子どもの教育について語る自由を享受しているかというとどうだろう。自由であるより誰かの言いなりになる方を選んでしまう。校長の言いなり、組合の言いなり、地域ボスの言いなり、世間の言いなり……そのくせ、勝手とわがままはお好きなようで,個人的にクレームをつけたがる人はどんどん増えてるみたいだ。
 そうじゃなくって自分の子どものことを、自分のクラスの子どものことを大切に思ったら親も教師もPTAに結集して、子どものために語り、力を合わせるべきなのだ。しかし、親も教師もいやいやPTA活動をしてやしないか。
 僕なんて単純に目立ちたがり屋なので、役員を頼まれたときには二つ返事でOK。しかもヒラ委員じゃダメ、委員長になる!なんて手を挙げていたくらいだからね。成人教育委員長から始まって、広報委員長もやった。PTA会長は3年間やった。上の子どもが卒業したら下の子どもが入学することになっていたので「6年やれるな」とひそかに思っていたら、副会長さんから「人間、潮時が肝腎よ」と諭されて渋々辞任したあの日が懐かしい。それに某小学校の『十年史』なんていうのも作ったりしたな。その分、我が子(その友だちを含めて)のためにがんばった喜びがあったし、ものすごく学ぶことが多かった。それにたくさんの先生たちと仲良くなることができた。そしてそれは僕の人生の財産でもある。こんなおいしいことがそこにあるんだから、とうちゃんもかあちゃんもセンセもPTAをもっと楽しもうよ。

                     参考文献;『千鳥小学校十年史』1990



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子どものむかし・いま・あした

 いろいろと起こる子どもたちの問題に、さまざまな意見が交わされています。「学校が悪いからだ」とか、学校に言わせると「最近の親はろくでもない」とか。学校の間でも、同じ子どもを相手にしているのに、小学校の先生は「あんなかわいい子が、中学に行くと荒れちゃうんだろう」とか、中学校の先生は「小学校はろくでもない子を送ってくる」とか。僕も言います、「小・中・高の教育でろくでもない子どもを送ってくれた」と。でもそれは愚痴で、このようなことをいくら言っても何の生産性もない。じゃあ自分はどうするのか、私はどんな子育てをするんだとか、自分の学校ではどういう教育をするんだ、ということが大切です。それを「オルターナティブ【alternative】」と言いいます。“対案”をたてるという意味です。
 子どものいじめや自殺の問題は、今、たまたまマスコミに載ったというだけで、実はずっとおこっています。十五~十六年前に「葬式ごっこ」として、センセーショナルに取り上げられました。いろんな形で命を落とすこともあれば、幸い命は落とさなくても、人生を棒に振るくらいの打撃を受ける子もいっぱいいるわけですから。その後もずっと事件はあっています。
 昔、医療が発達する前は、おそらく今の7割くらいの子どもは亡くなっている、そういう時代でした。生まれて半年もすると、熱を出してよく病院に通います。今は少子化傾向ですが、学校に上がると病気をしなくなって大体二十歳くらいまでは元気です。僕らのように年をとって死んでも、そんなに悲しい話にはならないんですが、未成年の子が亡くなるというのは非常に悲しい。そして、子どもがどこで死んでいるかというと、いくつかの問題が学校と絡んでいます。

 一月の終わりに、福岡県内のある場所で、子どもがいじめを受けて自殺しました。クラスの友だちが亡くなったから、みんなお葬式に行きたいと思いました。学校は入試の直前だったから、葬式に行かせなかったんですね。先生のコメントが載っていました、入試直前で「これで子どもたちに動揺が走らなければいい」って。警察の配慮で、加害に回った子どもの取り調べは、入試が終わるまで待ってくれたそうです。変でしょう、自分の何らかの影響で友だちが自殺したら、自分の入試があったって、まず自分の気持ちを説明するとかいう指導はないんですね。
 三月にまた一人、同じ学校で自殺したんです。学校があわてて調査したら、いじめじゃなかった。学校はホッと胸をなでおろした、と新聞記事に書いてありました。自殺の原因は受験に失敗したことだったらしいと。僕は同じ問題だと思っています。友だちの死よりも受験が大切だと思っている学校で、受験に失敗したらそれは死ぬしかないって空気を感じるでしょう。そういうなかでは、多分いじめているとかいじめていないとかいうことは、親にも学校の先生にも見えない。子どもたちがどんな気持ちで学校に行っているのか、それを見ようとする目を僕らがもたなくてはなりません。

 僕にも経験があります。うちの子が不登校をはじめて、学校に相談に行きました。子どもたちの様子は、僕らにはそう簡単に見てわからない。だから、「いじめている子は、首謀者をはじめ誰と誰だかわかっている。だけどその子を責めないでほしい、特定しないでほしい。決して仲直りさせないでほしい」と。先生は少し戸惑いましたが、よくわかってくれました。いじめがあると、最後は「いじめちゃいけない」とか言って、仲直りだ、握手だと、そこで収めて帰りますけど、それで満足しているのはおとなです。仲の悪い者どうしを仲良くさせようとすること自体に無理があります。子どもにとって、かなり大きなプレッシャーです。だから「仲の悪い友だちがいるんなら、無理してまで付き合わない。その代わり、わざわざつばを吐いたり、そういうことをするな」と、おとなの付き合い方を教えてやらなければ。彼らは、人間の付き合い方にとっても下手になっているんです。

 不登校というのは、かつて長期欠席児童といわれていて、戦後昭和三〇年代ころは経済的理由によるものでした。その後、高度経済成長により長期欠席児童が少なくなったのは、一九六五年~七〇年(昭和四〇年~四五年)です。そのころから、「今の日本の教育はおかしい」と言われ始めました。一番の問題は、受験戦争の激化だろうと言われています。七〇年代後半から、学校に行かない子どもたちが出てきます。だんだん数が増えて、登校拒否ではなく不登校に。今は不登校がいるということがあたりまえになってます。学校に合わないということを、子ども自身が言うようになってきた。おそらく学校がもっているいろいろな体質が、ここにきて苦しくなってきている。
 「昔はよかった」という人がいますが、昔、学校は自分の生活のほんの一部分だったんです。学校でいやなことがあっても、帰れば全然違う世界がありました。建物自体も萱葺きで、どんどん風が入っていた。組織的な意味でもそうでした。昔の親は、みんな「適当にやったら適当に育った」と言います。
 昔の親に比べたら、今の親はしっかりしています。子どもをちゃんと見ているわけです。今の子どもは、時間監視されているような状態にあって、“逃げ場”がないんです。いたずらも悪さもできません。息が詰まって、隠れて悪さやいじめをするか、コンピュータに向かってネットで意地悪するしかできなくなっています。追い詰められているんですね。  歌手の井上陽水が主題歌を歌っている『少年時代』(原作:藤子不二雄A)という映画があります。藤子不二雄が自分自身をモデルにした戦争中の疎開の話で、都会から来たといっていじめられます。あの時代、軍国時代で社会的に逃げ場がないような状態であっても、子どもは逃げ場所を見つけていたんです。

 高校の未履修問題。学校教育の目的は、普通教育をちゃんとして「人格の完成をめざす」ことです。世界の歴史はこのようにして動いている、だから今の世の中こうなっている。外国に行きその国の歴史物の映画を見たり、NHKの大河ドラマを楽しく見る。そういう教養を与えておくのが学校教育です。それが我々生きていくうえでの大切な知恵なんですね。数学も物理もそうです。この世の中の仕組みや面白さを知っていくことをどう与えるのか、というのが学校での教育です。それを子どもたちはおもしろいと思って、自分で勉強する。そこから学力は付いてくるんです。
 ところが、受験に通すんだと変わった瞬間から、教え方が変わって、子どもは意味がわからずにその解法だけを覚えていくわけです。そうするとなかなか学力が付かない。仕方がないから0時限目があって、補習をして教えていく。このように全部教えていくと、子どもは自分で勉強しなくなるんです。勉強しなくなるから、大学では学力が落ちます。受験の学力は、あれだけ勉強しても身に付かないんです。僕はたまたま違う大学を出たから、九州大学に来るチャンスがあった。ここの大学を出ていたら、多分ここにはいなかったでしょう。大学の仕組みはそうなっているんです。全部運です。その運の時に、自分の努力で何とかできる、というのが大切です。
 高校の世界史が必須になったのは、理念として、これからは世界の歴史という教養をもった国際人になってほしいと、学習指導要領を文部省がつくったんです。受験のために日本史を勉強するというのは、子ども自身の問題で、親の問題でも学校の問題でもないんです。それを学校がルールを侵してまでやってしまった。教育を放棄して、子どもに学ぶ力を与えていないのは、とても責任があります。

 病気にはいろいろあります。生活習慣病は、僕らが長年不摂生してきたことが、ここに現れているんです。そういう病気は、社会制度(制度疲労)のなかにもあるんです。学校も社会も、一度大病を患って大手術をしているんです。戦争に負けて、その後に大改革をしているんです。ところが、まだ残っている部分や、治りきっていない部分があって、それがだんだんと現れてきている可能性があるんですね。それと、学校をとりまいている環境も変わってきている。我々は、学校と家庭の体質改善をしなくちゃならないでしょう。

 学校で勉強するのは、つまんないし、役に立たないのはどうしてだろうか。「おもしろいよ」という子はそれでOKです。さっきも言ったように、なぜ本当の楽しさを与えてもらってないのか、単純に学校の先生の責任というわけではありません。今の学校ができる前、寺子屋では、お百姓や商人の勉強、お嫁さんの作法など、勉強したいことがあると学校に行って、そのことだけを学んでいました。先生は一日七〇人くらいの生徒一人ひとりに教えてあげるんです。共通しているのは読み書きをするってことですね。
 ところが、今の学校の制度は明治の初めにできましたが、国が必要とする国民をつくるために、学校をつくったんですね。だから、国が何を教えるかを決めるんです。そこに集まったいろいろな子どもの要求があるから、誰にとっても必要なようで、誰にとっても必要のないような内容になる。これが今の学校のカリキュラムの成り立ちです。それがダメだというわけではなく、だからつまらなくなりやすいし、役に立ちそうもない。だけども、新聞を読んで事情がわかるような知識や、世界の現象を見てわかるような知恵がそこにはあります。
 もうひとつは、明治十八年に内閣制度ができて、初代文部大臣の森有礼(もり・ありのり)が、富国強兵のもと、臣民(天皇の家来である民)形成のために、純良・親愛・威重(平たく言うと、上には媚びへつらえ、お互いに傷をなめ合い、子どもには威張り散らせ)と、師範学校の制度を変えます。軍隊のように一つの目標に向かっていく縦系列の組織を考えたんです。金ボタンとカラー襟のある学生服は、当時の陸軍士官学校の軍服そのものです。
 体罰についても、日本は世界でも有数に、初期の段階から(明治十二年)法律で禁止していました。これはヨーロッパよりもずっと先なんです。それにもかかわらず、これが入ってきたおかげで、法律の建前と現実が違ってきます。

 学校がなかったころ、子どもたちは村の中で育っていました。「七歳までは神のうち」と、子どもは天からの授かり物でした。六歳くらいになると、言っていることがわかるようになり、病気もしなくなって、社会の一員として仕事(子守り)をするようになります。おとなと子どもは、同じ仲間として仕事を覚えていきました。そして、十二歳~十五歳くらいになると、一人前になります。
 民俗学者の柳田國男は、そのころの子育てを「すこしづつ追い立てていってやらっていく」、「こやらい」と言っています。彼が生きていた時代、明治に新しく始まった学校教育は、無理やり牛を水のみ場に連れて行くような教育をしている、と批判しています。すでに、日本の学校教育の間違いは明治時代から始まっていたんですね。

 かつては、中学生になるくらいが身体も心も一人前だった。同じ生物ですから今でも変わりません。ところが、無菌状態でおとなにしないような教育をしています。中学校になるとますますそうです。それが中学の荒れにもつながります。子どもは親の背を見て育ちます。おとながおとなとして生きているのを見守っています。さらに子どもは、親の背を乗り越えて育つものです。
 基本的に、子どもが自分のことを自分でできるように、自分の人生は自分で切り拓くことができるように、生まれた時から少しずつ、手をかけないようにしていく努力を、親も学校もしていかなくちゃいけない。中学校になっても子どもがいるという認識だと、子どもはいつまでも伸びません。
 また、子どもが親の背中を乗り越えようとする時には、ちょっとかがんで乗り越えさせて、自信をつけさせることはとても大切だと思います。

 「子どもの権利条約」の趣旨は、子どもは常に一人のおとなと同じだけの権利をもっているというものです。国際条約は法律よりも優先します。何かするときには「子どもの権利とは何か」と常に考えながら、「何のためにやるのか」「誰のためにやるのか」ということを物差しにしてほしい。
 「教育基本法改正」の大きな問題点は、教育が一人ひとりの個人のために行われているものから、“国家の国民”という意識に変えられようとしていることです。学校の先生が、全体の奉仕者という位置づけから、国家の一員として国の教育の先端部分という位置づけになります。一〇条は、「国がこうだから学校で戦争に行け」と教えた経験から、子ども一人ひとりの幸せのために教育をするべきだ、といって国家から独立させた法律です。改正案は行政の中の一つに教育を入れようとしている。私たちの子どもの教育でなくなるということです。よく読んでほしいです。

posted by 河東真也 at 15:41| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

学校はただしい

 昨年の11月に某小学校PTAと家庭教育学級に呼ばれて「地域・学校・家庭で豊かな子育てを~子どものむかし・いま・あした」と題して講演をしにいった。会場は生涯学習センターで、PTA会員が51名、地域15名、他校15名の81名というなかなかの盛況であった。評判は結構よかったのではないか、と思っている。まもなく委員の方からメールが来て講演の概要をPTA新聞に載せるので、校正をしてくれとファイルを送ってきた。レイアウトもかわいらしくしてあるものであり、そのまま印刷すれば新聞になってしまうところまで完成されたものだった。文章も僕の話の趣旨を要領よくまとめてあって、実に感心した。それで少しばかり赤を入れて返送し、できあがるのを楽しみにしていた。せこい話であるが、今年の著作物にそっと入れようと考えていたのだ。
 ところがそのまま音沙汰がはなく、僕もいつのまにか忘れていたのだが、先般、そのときの委員の方から連絡があった。なんと僕の講演をまとめた文章はPTA新聞に掲載されなかったのだそうです。どうしてかって?学校側が載せるなと掲載を差し止めたのだそうです。つまり検閲なんだな。検閲については日本国憲法に次のように書いてある。
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
 これだ。なんと、学校は日本国憲法を平然と犯して僕と成人教育委員会の表現の自由を侵害したということになる。もうじき変わってしまうからどうでもいいものと考えていたのかと自民党の新憲法草案をみたら「検閲は、してはならない(第21条2)」とあった。憲法が変わっても検閲はいけないことなのだ。しかし、学校では何の疑念も持たずに検閲が行われている。どうしてだろうか。
 昨年通信簿について書いたときに「学校と家庭の連絡を密にして子どもの教育の効果を上げる」ことが目的の一つだったと説明したと思う。学校と家庭との連絡を密にすることは日本の学校にとって重要なことだった。手元に教育学術研究会編纂『小学校事彙』という書物がある。明治37年の刊行で厚さが7㎝ばかりある。その中の「学校と家庭」という章を読んでみるとその当時の学校と家庭の関係がよくわかる。まずは学校と家庭の連絡は絶対に必要だと述べられ、さらに「学校は其の教授の点に於て、家庭よりも多量の事業を為すに反し、独り訓練上に於ては、学校に於ける仕事は、到底家庭に於て与ふる勢力に及ばざるや遙かに遠しと云ふも、決して妄言にあらざるべし」とある。つまり、教科教育は学校が家庭よりも影響力があるが、訓練(人間形成)については学校の影響力は圧倒的に家庭のそれには及ばない、と現状を把握している。だから、「訓練に関して、両者相一致し、相提携し、方針を一にし、方向を共にし、能く児童の特性身分境遇に応じて適切なる訓練を加へざるべからず」(人間形成に関しては学校と家庭の方針を一致させ、子どもの家庭の事情をふまえて適切な訓練をしなくてはいけない)と書いてある。要は学校の人間形成の方針を各家庭に守らせるために連絡が必要なのだということだ。通信簿はそのために始まったものだが、それだけではなくさまざまな方法が使われている。
 たとえば埼玉県の川越高等小学校では、「家庭心得」なる文書の中に学校と家庭の連絡について記述があり、通信簿、父兄会、学校参観、儀式への臨席などをあげ、「学校ノ申付ハ何事ニ限ラズ必ズ践ミ行ハスル様注意サレ」(子どもには学校の言うことを必ず守るようにしつけろ)と学校の絶対的な正当性を強調していた。
 ここに出てくる父兄会というのは懇話会とか懇談会という場合もあり、年に何度か父兄を招集して懇談するものであり、授業参観や学芸会、理化学の実験と抱き合わせにすることが多かった。これは学校の教育のありがたさを無知な父兄に知らしむるものであって、もちろん保護者の評価を求めるものではない。また、「児童保護者の心得」「家庭心得」というものが示され、学校から家庭に対しての指導が行われていたのだ。常に学校は正しいのだということを親によくよくわからせることがねらいだった。
 ということは学校の方針にとって好ましくない考え方は許されるものではなかったし、学校と意見のちがう親なんてあり得なかったのだ。学校が憲法すら無視し、超法規的に検閲をしているのは、そうした学校の絶対的正当性という幻想に未だにすがっていることのあらわれなのだろう。学校と意見のちがう親なんて今でも認めたくないのだ。
 

posted by 河東真也 at 15:29| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

戦後教育と不作為の罪

 2006年末に教育基本法「改正」案が可決して戦後教育体制は大きく変わったことは承知してるだろうね。何も変わらないさ、なんて今までみたいに能天気にかまえているととんでもないことになる。例えば『心のノート』なんていうのがじわじわっと使わせられようとしているけど、使わないでいられるのも教育に対する不当な支配を教育基本法が禁止していたからだ。『心のノート』は事実上の国定教科書だと言われてきたが、これからは国定教科書にだってなりかねない。
 ところで、学校では『学習指導要領』に基づいて…、「教科書」を使って…、授業をしているだろう。だから『学習指導要領』が変わるたびに現場は大騒ぎをすることになる。総合的な学習にしても、ゆとり教育にしても学習指導要領の改定によって現場にもたらされたことがらなのだ。しかし、これらのことは教育現場が行政に支配されているといってもいいものではないか。
 『学習指導要領』にしても検定教科書にしても、教育がかつての戦争をささえ、国民を戦争に駆り立てていったことに対する痛悔の念から生まれたものだ。二度と同じ過ちは繰り返さないために教育を国民の権利として位置づけなおしたのが教育基本法であったし、戦後教育だったのだ。GHQは1945年にいわゆる四大指令というのを出して占領政策をはじめたが、その四番目はこの年の大晦日に出された「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」である。軍国主義的ないし過激な国家主義的イデオロギーがこれらの教科書を通じて子どもたちに教え込まれてきたとして、これらの教科書の回収と授業の停止を求めたものだった。ここから戦後の教育の立て直しが始まるのだが、他の教科書についても墨が塗られたことはよく知られていると思う。軍国主義から民主主義への転換にはいったん新たな権力の手でおこなわれたのだ。だから復活した教科書はGHQの認めた国定教科書だった。
 しかし、このままでは今まで通り国家のいいなりになってしまい、民主主義どころかちがった権威主義になってしまう。そこで『学習指導要領』なるものを文部省は作成したのだ。新学制発足直前の1947年3月に『学習指導要領』が発行された。これらには(試案)と銘打たれている。そして『一般編』の序論には戦後日本の教育はこれまでとはちがい、「こんどはむしろ下の方からみんなの力で,いろいろと,作りあげて行くようになって来たということである」と宣言し、「今後完全なものをつくるために,続々と意見を寄せられて,その完成に協力されることを切に望むものである」と現場の教師たちの手で作り上げていくようにという考えを示していた。
 この『学習指導要領』に基づいて新しい教科書を作ることになったのだが、当然それは教師たちが自由に執筆・編集していくものであった。ところが、そこに問題があった。戦後という時代である。物資は欠乏し、国民は食う物にも事欠いていたことは当時を生き抜いた人たちから伝え聞いているだろう。当然のことながら教科書にするための紙じたいがめっちゃ不足していたのだ。自由発行にすれば、紙をめぐって熾烈な競争となるし、当然価格にも影響を与える(なにしろ教科書は有料であった)。それで教科書の発行に関する臨時措置法という法律をつくって教科書発行を円滑にしようとしたのである。この法律の第1条には「この法律は、現在の経済事情にかんがみ、教科書の需要供給の調整をはかり、発行を迅速確実にし、適正な価格を維持して、学校教育の目的達成を容易ならしめることを目的とする」と記されている。教科書は自由発行されるべきものであるが、当時の経済事情を背景に検定という措置がとられたのである。だから経済事情が好転すれば教科書は教育現場の声を反映したものを自由に発行できるはずだったのだ。そろそろいいだろうとは思うのだが、この法律、改定を重ねながら未だに生きている。まだ「現在の経済事情」とやらに縛られているのだそうだ。
 誰が縛っているかって?自分たちで『学習指導要領』を作らなかった人々であり、自分たちで教科書を作ろうとしなかった人々である。権力にお任せした結果、『学習指導要領』は法的拘束力を持つようになり、教科書は検定のままなのだ。こういうのを不作為の罪という。深く反省しなくちゃ。


posted by 河東真也 at 15:22| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

なぜ中学生は煙草を吸ってはいけないの

 中学校や高校では生徒の喫煙というのは深刻な生徒指導の課題だろうと思う。なにしろ喫煙は非行の始まり。取り締まらなければならないもの、とまずは決まっている。しかし、「なぜ煙草を吸ってはいけないのか」と生徒に質問されたら、何て答えればいいのだろうか。「煙草は健康に悪い」と言えば中年の教員のほうが健康面では心配である。「おめえがやめれば…」と冷たく逆襲されるだろう。「煙草は身体の成長を妨げる」何て言ったところで、見上げるように背の伸びた生徒に対する説得力は持たない。
 煙草は非行のサインではあるが、そのサインを消したからといって非行がおさまるわけではない。じゃあ生徒に何と説明すればいいのだ。……答えは一つ。
 「法律で決まっているからだ!」
ということだ。しかし、法律で決まっているからダメだというのでは説得力に乏しいことも否定できない。で、この法律、すなわち未成年者喫煙禁止法(明治33(1900)年3月7日制定、4月1日施行)ができた背景を振り返ってみよう。
 もとより日本の伝統社会では煙草のような嗜好品は「一人前」の者にのみ認められることであった。「一人前」というのは武士でいえば元服、およそ一通りの労働ができるようになった人間をいう。だいたい12~15歳くらいであったと考えていい。今でいえば中学生くらいだな。そのくらいの年になれば煙草を吸うのはあたりまえ、というのが社会的な慣行だったのだ。
 ところが明治20年代になって、例えば生徒による校長排斥運動のような学校紛擾(ふんじょう)が頻発するようになると様子が変わってきた。おとなたちの眼から見て生徒たちの叛乱は学校の風紀の頽廃というふうに位置づけられ、それが社会問題化するようになったのだ。そして学校の生徒の喫煙を禁止しようという風潮が出てきた。つまり、「学校の生徒はまだ勉強中の身で一人前ではないから煙草を吸うなんて生意気だ!」ということなのだ。だから文部省は省令で学校の生徒の喫煙を禁止しようとした。しかし、省令では学校内の生徒に喫煙を禁止することはできても、学校の外に出てしまえば取り締まることはできない。それで貴族院では「青年一般を対象にしないと学校生徒の喫煙は取り締まれないじゃねえか」という意見が出て、未成年者喫煙禁止法が成立したのである。つまり、学校の論理が青年一般(世間一般)に広げられたのである。ちなみにこの当時の中等レベルの生徒は同年代の数パーセントに過ぎない圧倒的に少数派であった。その少数派を取り締まるためにすべての青年を対象にした法律を作ったのである。
 もちろん反対運動もあった。明治33年1月28日の大阪朝日新聞には祇園新地の芸娼妓の中から反対を唱えるものが出てきたと記されている。「烟草は我々の最大機関にして、烟管の雨が降ると烟脂下がりし助六の昔より、吸いつけ烟草の愛嬌に客を吸い込むは言うまでもなく、茶、酒の合間の手捌きもよく、また後朝のちょっと一ぷくに、一縷の烟後髪をひくの能ありて、寸時も欠くべからざるものなるに、一朝これを禁止せられては、未成年者の芸娼妓はさらでだに座敷を持ちかねて、ややもすれば酸漿ぶうぶうの無愛想をなす物れば、…」という具合であった(文意の解説はしないのでそれぞれで解釈してほしい)。
 つまり、一方で未成年の労働者が煙草というツールを必要とする職種も存在したということだ。そしてこうした業界を必要とする人たちの手でこの法律は議会を通過した。ということはこの法律が実効性を持つのは学校の生徒に対してだけだ、ということがはじめから決まっていたのであり、社会一般には実質的な有効性を持たないザル法になるということが想定されていたのだ。今でもこの法律にもとづく〈指導〉は中学生、高校生に力点が置かれているのはそういう歴史があるからである。
 ところで、対象を学生生徒に絞った法律がある。自転車競技法、モーターボート競走法、小型自動車競走法などのギャンブルに関する法律では「学生生徒及び未成年者は、車券(勝舟投票券、勝車投票券)を購入し、又は譲り受けてはならない。」とそれぞれの法律で学生生徒の購入は禁止されている。但し、公営ギャンブルの元祖である競馬については2004年の改正で学生生徒の文言は削除された。理由は学生生徒というのは憲法第14条における社会的身分に相当するからだという。
posted by 河東真也 at 15:20| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

通信簿の楽しみ

 いよいよ夏休みだなあ。しかし、センセイ方はその前に通信簿(通信表、通知表、通知簿とかなんとか)をつけなければならないのが大変みたいですね。でも、通信簿っていうのは別に作らなくてもいいんだな。だって特に法的なきまりは何もないんだから。にもかかわらず通信簿は深く日本の教育とかかわってきた。何しろ学校の思い出といえば通信簿だもの。
 この通信簿、いったい何のためにあるんだろうか。1891(明治24)年の小学校教則大綱に対する文部省説明の中に「各児童ノ心性、行為、言語、習慣、偏僻等ヲ記載シ道徳訓練上ノ参考ニ供シ之ニ加フルニ学校ト家庭ト気脈ヲ通スルノ方法ヲ設ケ相提携シテ児童教育ノ功ヲ奏センコトヲ望ム」(心性、行為、言語、習慣、偏僻等なんかを書いて道徳訓練の参考にすることと、学校と家庭の連絡を密にして子どもの教育の効果を上げることを期待する」って書いてあり、その方法のひとつが通信簿だったと考えてよい。
 当初は連絡帳みたいなものだったけれど、1900(明治33)年の小学校令施行規則で校長の作成する学籍簿の形式が具体的に示された。つまり、子どもの学業成績、出欠、身体状況などを学籍簿という公簿に記録することが制度としてできあがったのである。そのデータを使って通信簿を作って子どもに配付するということが一般化したということだ。なんちゅうことはない、学籍簿などの公簿の制度が確立したから調子にのってその権威性を子どもや保護者に見せつけようとして始めたのが通信簿なのだ。通信簿に法的根拠がないというのは、もともと表に出すべきではない学籍簿の中身を外に出すことだからだ。それとそういう秘密の資料(学籍簿)に基づいた通信簿だから権威があるように見える。それをちらつかせることで子どもと親を管理していくというのも通信簿の役割だったのだ。
 たまたま明治36年度の柳河男子高等小学校の通信簿である「児童成蹟通告表」というのが手元にある。僕が古本屋で買ったものだ。これは一枚の用紙を二つ折りにした4頁のものだ。この「児童成蹟通告表」を開くと右側には小さなデータ記入欄として、出欠日数、出身尋常小学校長と保護者の押印欄、身体検査表の欄が並んでいる。成績は各学期ごと及び学年の終わりに記入するようになっており、成績の標語は甲乙丙丁で書き込んである。この成績はチョー絶対評価である。教師がいいと思ったらためらわずに「甲」と書くようだ。だから成績の分布はまったく一定していない。今は評価にはかなり神経質になってるみたいで、基準やら規準やらを斟酌して数字をいろいろ操作しているようだが、この頃は何とおおらかなことか。まあ親にとっても子どもにとってもよければ「甲」、悪けりゃ「丙」というのはすごくわかりやすかったんじゃないかな。と、同時に教師のお眼鏡にかなうか否かが評価に結びつくものでもあり、教師の権威は否が応でも高くなったのだ。ああ教師にとってはいい時代だったねぇ。

 ところで、これまで『羅針盤』に連載していたものが本になった。もちろんだいぶ加筆修正している。自分で書いたものだけれど読んでみるとめっちゃおもしろい。

『学校は軍隊に似ている―学校文化史のささやき』(社)福岡県人権研究所発行、海鳥社販売、で1200円+税だ。店頭になくても本屋さんに注文すると買えるので、よろしく。クラス単位でまとめ買いするというのなら、著者の独断で割引も考えようじゃないか。
posted by 河東真也 at 15:18| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

2006年06月05日

おお

先日某大学で学校の文化史という講義をしたが、受講生の一人がなんとこのブログを見つけてしまった。えらい、よく調べたなあ。
posted by 河東真也 at 09:18| 福岡 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

2005年10月20日

受験準備は卒業の後で

 地球温暖化とやらで夏はだんだん暑くなってくる気がしませんか。あちこちで二学期制がブームだけど、暑くて長い夏休みを過ごしたあとでまた前学期に戻るって子どもの感覚から見れば四学期制になったみたいなもんだよね。えーと、学年が四月に始まるいわゆる四月始期という学年暦の区分が一八八六(明治一九)年に高等師範学校から始まったことは前に書いた。これは優秀な人材を軍隊に採られる前におさえちゃおう、という青田刈りの発想だった。この四月始期は夏休みを区切りとすることで三学期制とも比較的なじみやすかった。もっとも僕自身の意見としては一年間で一番長い休みの期間を学年の途中に持ってくるよりは、学年の終期と始期の間に持ってくる方がいいと思うのだけれど、まあ、馴れ親しんだことだから言ってもしょうがないわな。
 小学校については一八九二(明治二五)年から全国的に四月始期になり、中学校についてもこの頃に四月始期に移行しているところが多い。但し、中学校については学校別に始期を定めていたので妙なことになる。例えば佐賀県尋常中学校は一八八九年に定めた規則に従い、一八九一年から四月始期となったのだけれど、一八九二年に創設された宮城県尋常中学校は設立当初から四月始期を採用していたというように、全国的に四月始期への移行はまちまちであった。しかも同じ福岡県であっても一八九四(明治二七)年に尋常中学校伝習館、豊津尋常中学校、久留米尋常中学明善校がそれぞれ規則を定めて四月始期を実施したのに、尋常中学修猷館は一八九五年から四月始期制を実施するというように同じ県内でも足並みはそろっていなかったというのも今なら信じられないおおらかな話だろう。
 まあ、伝習館、豊津、明善、修猷館というくらいしか福岡県には中学校はなく(これでも全国的には多い方であった)、小学校だけで終わる子どもたちがほとんどだったので多少の入学時期のずれは気にならなかったのかもしれない。
 ところで久米正雄の短編に「受験生の手記」というのがある。一九一八(大正七)年の作品で、当時の受験模様がリアルに描かれている。主人公は一高(第一高等学校=現在の東京大学教養学部の前身)の受験に失敗して一浪している青年である。しかも彼の弟もまたこの年に中学を卒業して高等学校を受験することになっていた。ちなみにこの頃の高等学校というのはすべて官立(=国立)で、第一高等学校から第八高等学校までの八校しかなく、高等学校を卒業すると帝国大学(東京、京都、九州、東北)のどこかに必ず入れるようになっていたのだ。その意味では庶民にはほど遠い存在でもあったが、いったん成功すれば立身出世がかなう場所でもあった。
 で、主人公の青年は前年の失敗の理由をかく分析している。

…卒業後の大切な数月を刺戟のない田舎で勉強しようとしたのが間違だつた。早くから上京してゐて、切迫した空気の中にゐたら、或ひは勉強ももつと緊張し、又受験術も巧妙になつてゐたかも知れない。

 四月になると中学を卒業した弟が上京して来てともに受験勉強にいそしむが、彼は再び失敗し、弟は合格とともに彼の恋まで奪ってしまい、青年は自殺をする、という話だ。この話で気づいたと思うが、中学の卒業が三月、高等学校の入試は七月なのである。小学校や中学校が四月始まりになってからも、高等学校と帝国大学は一貫して九月始期を堅持していたのである。高等学校と帝国大学が四月始期を採用するのはなんと一八一九(大正八)年からであった。ほぼ四半世紀の間中学校を卒業する時期と高等学校の入学の時期との間に三ヶ月余の時間差があったのである。現在は高校や大学の入試が中学校や高等学校の通常の学期に食い込み、三学期はまったく授業なんかはできなくなっている。まっとうな人は中学校や高等学校の授業が歪められるというし、ある人は教員としての本務を抛ち受験代行業みたいな雑務に三学期を埋没しているようだ。もしかつてのように始期がずれていれば、中学校も高等学校もきちんと三学期まで通常の授業ができる。受験勉強は卒業してからすればいいのだから。そうなると授業のできないセンセはすぐにばれるか。

posted by 河東真也 at 13:07| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

はじめは二学期制だったけど…

 福岡市同和教育研究会の会長を努めていた松澤善裕さんという人は古いものを集めるのが趣味でして、時として教育関係の古文書なんかを見せびらかしてくれた。日本教育史を生業としている(よく覚えておいて!)僕としてはたいへんうれしいのだ。あるとき見せていただいたのは小学校の卒業証書であった。ちょいと紹介しよう。まず、「福岡県平民」と族籍入りなのだ。(「同和教育をやっているのにそんなものを紹介するのは赦せん!」などと怒らないこと、何しろ昔の話なんだから。)で、「何野某助」と名前があり(さすがに松澤さんは実名は挙げないようにと忠告してくれたので仮名。)、その左に「八年四月」とある。つまり八歳四ヶ月ということだ。本文は「下等小学第八級卒業候事」とまんなかに書かれ、「第五大学区福岡県管内 第三十三中学区鞍手郡 稲光小学」と学校名が記されている。問題は日付が「明治九年十一月」となっていることである。
 この人物の卒業証書はまだ他にあった。並べてみると七級卒業が明治一〇年一一月、六級卒業が一一年四月、五級卒業が一一年一一月、四級卒業が一二年四月となっている。こうやって並べてみると何か気づくだろう。そう、各級ごとに卒業という言葉が使われており、その卒業の時期が一一月と四月という中途半端な時期だということである。
 文部省の「小学教則」によればこのころの小学校は下等小学と上等小学に分かれ、それぞれ四年ずつの課程になっている。下等小学は全部で八級からなり、六ヶ月で進級することとし、進級は試験によって認定されるという仕組みだった。そう、日本の学校教育ははじめから(学期という言い方はしないけど)半年単位で進級する二学期制だったのだ。この小学校で一一月と四月に各級の卒業試験をして進級を決めていたというのはそういう仕組みを示している。しかし、それにしても中途半端な時期ではないか。
 で、もう一つの卒業証書を見てみよう。今度は「福岡県貫属士族」とあり、「誰田誰也」(仮名)と名前が書いてある。年齢は「当九月九歳九月」とあって九月時点で九歳九ヶ月であった。同じく「下等小学第八級卒業候事」と書かれているが、発行は「第五大学区福岡県管内 第三十四中学区夜須郡下秋月村 秋月小学」となっていて、日付は「明治七年九月」となっている。おやおやこんどは九月卒業と鞍手郡とは時期がちがう。どうしてかというと、明治九年に決められた旧福岡県(まだ廃藩置県の途中で、現在の福岡県は小倉県、福岡県、三潴県の三県に分かれていたのだ)の小学試験規則では上期試験を三月か四月に、下期試験を九月か一〇月にするように定められていたので鞍手郡と夜須郡では半期の区切り方にズレがあったというわけなのだ。
 ところが小倉県では一月一一日から七月一五日までと八月一五日から一二月二六日までが開校期間となっていて、福岡県とはかなりのズレがあった。また、小学校ではないけど、明治一一年に設置された福岡師範学校附属変則中学では二月と七月が定期試験の月とされ、この試験で進級が決まるとなっていたから、二月と七月に入学や進級や卒業の行事が行われていたと考えられる。
 このことからわかるようにこのころはまだ何月からはじまるということの全国的に統一された規則はなかったんだな。このように学校によって暦がちがうのは転校するということが考えられていなかったこと、小学校での学習が上級学校への進学とまったく結びついていなかったことを示している。横並びという発想がなかったのだ。学校の常識が今とはまったくちがっていたんだな。いったい誰が今の学校の横並びという常識をつくったんだろうね。


     


posted by 河東真也 at 12:25| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

二学期制のその前に

 このところ二学期制を始める学校もあるけど、困ったのが二つの長い休みだ。そう、夏休みと冬休み。これがせっかくの学期の真ん中に来て緊張感を断ち切ってしまう。冬休みはクリスマスと正月という国民的(!)行事だから、まあ何とか許せるとして、夏休みは一ヶ月以上もあるからどうしたって前学期はだれてしまうんじゃないかな。
 実は大学はずっと二学期制をとっている。前学期は四月から九月まで後学期は十月から三月までとなっているのだが、前学期は夏休みのあけた九月に一回授業をしてから試験期間に入っていた。つまり最後の講義というのは長い休みのあとの最後の講義というのは何とも気の抜けたものになってしまう。夏休みの間に学生はそれまで講義した内容をすっかり忘れてしまうから最後の回に「前回話したあの件は…」なんて言っても話はつながりはしない。結局、講義時間数は帳尻をあわせても事実上意味のない時間つぶしに終わってしまった。最近になって、9月分の講義と試験を夏休み前に前倒しにして前学期を終わらせてしまうようになったのだが、前学期の最後は真夏日の中で過ごすことになる。低燃費のエアコンが完備してきたので可能になったことである。
 だいたい夏休みというのは日本の習慣にはなかった。これを持ち込んだのは東京大学の前身である東京開成学校に雇われていた外国人教師たちの習慣によるものであったと思われる。1875(明治8)年の同校の規則に「九月十一日ヨリ七月十日ニ至ル之ヲ学歳トス 之ヲ分チテ二学期トス 第一学期ハ九月十一日ヨリ翌年二月十五日ニ至リ第二学期ハ二月十六日ヨリ七月十日ニ至ル」と定められたのがおそらく最初の規定だろう。つまり、学年の始期が九月であるから夏休みが学年の終わりに来ていることがわかるだろう。一年間たっぷり勉強したあと二ヶ月の休養をとれるわけだ。教師たちもゆっくりバカンスを楽しむというわけだ。つまり夏休みは九月学年始期と相性がいい制度だったのだ。
 ところで私たちが慣れ親しんできた三学期制は4月始期制と深くかかわっている。四月始期制は一八八六(明治一三)年に高等師範学校が始めたことであった。佐藤秀夫氏によれば第一に徴兵令の改正によって壮丁の届出が九月から四月に変わったことによる。どういうことかというと陸軍にとられる前に優秀な人材を高等師範学校に確保するための策略であったという。第二の理由はやはりこの年に国の会計年度が七月から始まるものだったのが現在の四月からに変わったことによる。そのほうが便利だという役人の都合によるものであった。とは言え同じ文部省管轄の帝国大学は九月始期を続けるので文部官僚が強気に出られるところに押しつけたということなのだろう。
 小学校の始期については特に全国統一の時期は決められてはいなかった。福岡県ではこのころは九月始期であったが、佐賀県では明治二一年から四月始期とするよう達しがあったという。
 全国の小学校に4月始期制度が適用されたのは明治25年からであるが、法制化されたのは一九〇〇(明治三三)年の小学校令施行規則による。実際には四月始期が定着するのにはそのくらいまでかかったということらしい。今思う以上にのんびりしていたということだな。四月始期が定着してくると夏休みがじゃまをして授業期間を夏休みで区切るのが都合よくなる。そういうことで夏休みと冬休みをうまく使った学期の区分がやりやすい、ということで三学期制が普及したということなのだ。
 要は三学期制は四月始期制の所産であり、二学期制は九月始期制にぴったりの制度だったということだ。今さら言っても遅いけどね。

posted by 河東真也 at 12:23| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

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