2008年02月24日

PTAはたのしい

 前回書いたように、学校が父兄会なんかを作って「学校と家庭との連絡を密にする=学校のただしさを親に伝えていく」というのが日本の学校教育の基本だった。父兄会だけじゃない。母姉会というのもあったし、保護者会、学校後援会というようなものもあった。まあ、父兄という言葉には母親はいないし、母姉という言い方は明らかに女性の役割を固定化したイメージがあるよね。学校後援会なんていうのはそうした戦前の学校と親の関係を象徴的に示した組織名だ。つまり、学校、教職員の支援(金銭面も含む)をする組織であり、学校に従属する団体だったのだ。結果的に学校が戦争に向けて突っ走っていったときに親が子どもの命を守れず、逆に子どもを親の手で戦場に追いやることになってしまったのだ、とも言える。
 校長の言いなりに学校に奉仕することだけを考えているPTAがあるとすれば、気をつけた方がいい。また、PTA新聞を検閲したがる学校があれば気をつけなければならない。そういうところから学校がおかしくなっていくし、それは子どもの命にかかわってくるのだから。
 PTAというのは日本語では父母教師会(最初は「父母と先生の会」と言った)、戦後に始まったものだ。敗戦直後の日本にアメリカから教育使節団というものがやって来て日本の教育についていろいろ意見を残していった。それを『米国教育使節団報告書』というのだけれどその中にPTAのことが書いてある。それは「子どもたちの福祉を増進し、教育計画を改善するため」の「親と教師の団体」であり、「成人教育」の場であるということだった。この意見に基づいて文部省は1947年3月に「『父母と先生の会』資料」なるものを都道府県に配布した。これがPTAの出発なのだ。
 「『父母と先生の会』資料」にはPTAというのは子どもの幸福の実現のために親と教師が共に学び、手を取り合って行政に働きかけていくのが目的だというふうに書いてある。そして戦前の学校後援会や父兄会が、学校の教師が説明や注意したことを親がうけたまわるという受身的な立場であったことを批判し、教師と父母が対等の立場になることを要求していた。だから教師は自らPTAの会費を払って会員となっているのだ。それが負担という人がいるかどうかは知らないが、そのことで教師は学校という組織や教職員組合といった柵(しがらみ)から離れ、個人的立場で親と同じ目線で子どもの教育について語れるという自由を得たのである。親もまた、教師と対等に自分の子どもの教育を語れるようになったのだから,これもまた学校教育に対する権利と自由を得たのだ。PTAは自由を享受(enjoy)する組織なのだ。
 ところが、自由というのは憧れだけれど、いったん手に入れてしまうと持て余すものみたいなんだな。親も教師も子どもの教育について語る自由を享受しているかというとどうだろう。自由であるより誰かの言いなりになる方を選んでしまう。校長の言いなり、組合の言いなり、地域ボスの言いなり、世間の言いなり……そのくせ、勝手とわがままはお好きなようで,個人的にクレームをつけたがる人はどんどん増えてるみたいだ。
 そうじゃなくって自分の子どものことを、自分のクラスの子どものことを大切に思ったら親も教師もPTAに結集して、子どものために語り、力を合わせるべきなのだ。しかし、親も教師もいやいやPTA活動をしてやしないか。
 僕なんて単純に目立ちたがり屋なので、役員を頼まれたときには二つ返事でOK。しかもヒラ委員じゃダメ、委員長になる!なんて手を挙げていたくらいだからね。成人教育委員長から始まって、広報委員長もやった。PTA会長は3年間やった。上の子どもが卒業したら下の子どもが入学することになっていたので「6年やれるな」とひそかに思っていたら、副会長さんから「人間、潮時が肝腎よ」と諭されて渋々辞任したあの日が懐かしい。それに某小学校の『十年史』なんていうのも作ったりしたな。その分、我が子(その友だちを含めて)のためにがんばった喜びがあったし、ものすごく学ぶことが多かった。それにたくさんの先生たちと仲良くなることができた。そしてそれは僕の人生の財産でもある。こんなおいしいことがそこにあるんだから、とうちゃんもかあちゃんもセンセもPTAをもっと楽しもうよ。

                     参考文献;『千鳥小学校十年史』1990



posted by 河東真也 at 15:43| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする
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