2008年02月24日

戦後教育と不作為の罪

 2006年末に教育基本法「改正」案が可決して戦後教育体制は大きく変わったことは承知してるだろうね。何も変わらないさ、なんて今までみたいに能天気にかまえているととんでもないことになる。例えば『心のノート』なんていうのがじわじわっと使わせられようとしているけど、使わないでいられるのも教育に対する不当な支配を教育基本法が禁止していたからだ。『心のノート』は事実上の国定教科書だと言われてきたが、これからは国定教科書にだってなりかねない。
 ところで、学校では『学習指導要領』に基づいて…、「教科書」を使って…、授業をしているだろう。だから『学習指導要領』が変わるたびに現場は大騒ぎをすることになる。総合的な学習にしても、ゆとり教育にしても学習指導要領の改定によって現場にもたらされたことがらなのだ。しかし、これらのことは教育現場が行政に支配されているといってもいいものではないか。
 『学習指導要領』にしても検定教科書にしても、教育がかつての戦争をささえ、国民を戦争に駆り立てていったことに対する痛悔の念から生まれたものだ。二度と同じ過ちは繰り返さないために教育を国民の権利として位置づけなおしたのが教育基本法であったし、戦後教育だったのだ。GHQは1945年にいわゆる四大指令というのを出して占領政策をはじめたが、その四番目はこの年の大晦日に出された「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」である。軍国主義的ないし過激な国家主義的イデオロギーがこれらの教科書を通じて子どもたちに教え込まれてきたとして、これらの教科書の回収と授業の停止を求めたものだった。ここから戦後の教育の立て直しが始まるのだが、他の教科書についても墨が塗られたことはよく知られていると思う。軍国主義から民主主義への転換にはいったん新たな権力の手でおこなわれたのだ。だから復活した教科書はGHQの認めた国定教科書だった。
 しかし、このままでは今まで通り国家のいいなりになってしまい、民主主義どころかちがった権威主義になってしまう。そこで『学習指導要領』なるものを文部省は作成したのだ。新学制発足直前の1947年3月に『学習指導要領』が発行された。これらには(試案)と銘打たれている。そして『一般編』の序論には戦後日本の教育はこれまでとはちがい、「こんどはむしろ下の方からみんなの力で,いろいろと,作りあげて行くようになって来たということである」と宣言し、「今後完全なものをつくるために,続々と意見を寄せられて,その完成に協力されることを切に望むものである」と現場の教師たちの手で作り上げていくようにという考えを示していた。
 この『学習指導要領』に基づいて新しい教科書を作ることになったのだが、当然それは教師たちが自由に執筆・編集していくものであった。ところが、そこに問題があった。戦後という時代である。物資は欠乏し、国民は食う物にも事欠いていたことは当時を生き抜いた人たちから伝え聞いているだろう。当然のことながら教科書にするための紙じたいがめっちゃ不足していたのだ。自由発行にすれば、紙をめぐって熾烈な競争となるし、当然価格にも影響を与える(なにしろ教科書は有料であった)。それで教科書の発行に関する臨時措置法という法律をつくって教科書発行を円滑にしようとしたのである。この法律の第1条には「この法律は、現在の経済事情にかんがみ、教科書の需要供給の調整をはかり、発行を迅速確実にし、適正な価格を維持して、学校教育の目的達成を容易ならしめることを目的とする」と記されている。教科書は自由発行されるべきものであるが、当時の経済事情を背景に検定という措置がとられたのである。だから経済事情が好転すれば教科書は教育現場の声を反映したものを自由に発行できるはずだったのだ。そろそろいいだろうとは思うのだが、この法律、改定を重ねながら未だに生きている。まだ「現在の経済事情」とやらに縛られているのだそうだ。
 誰が縛っているかって?自分たちで『学習指導要領』を作らなかった人々であり、自分たちで教科書を作ろうとしなかった人々である。権力にお任せした結果、『学習指導要領』は法的拘束力を持つようになり、教科書は検定のままなのだ。こういうのを不作為の罪という。深く反省しなくちゃ。


posted by 河東真也 at 15:22| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする
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