2005年10月20日

受験準備は卒業の後で

 地球温暖化とやらで夏はだんだん暑くなってくる気がしませんか。あちこちで二学期制がブームだけど、暑くて長い夏休みを過ごしたあとでまた前学期に戻るって子どもの感覚から見れば四学期制になったみたいなもんだよね。えーと、学年が四月に始まるいわゆる四月始期という学年暦の区分が一八八六(明治一九)年に高等師範学校から始まったことは前に書いた。これは優秀な人材を軍隊に採られる前におさえちゃおう、という青田刈りの発想だった。この四月始期は夏休みを区切りとすることで三学期制とも比較的なじみやすかった。もっとも僕自身の意見としては一年間で一番長い休みの期間を学年の途中に持ってくるよりは、学年の終期と始期の間に持ってくる方がいいと思うのだけれど、まあ、馴れ親しんだことだから言ってもしょうがないわな。
 小学校については一八九二(明治二五)年から全国的に四月始期になり、中学校についてもこの頃に四月始期に移行しているところが多い。但し、中学校については学校別に始期を定めていたので妙なことになる。例えば佐賀県尋常中学校は一八八九年に定めた規則に従い、一八九一年から四月始期となったのだけれど、一八九二年に創設された宮城県尋常中学校は設立当初から四月始期を採用していたというように、全国的に四月始期への移行はまちまちであった。しかも同じ福岡県であっても一八九四(明治二七)年に尋常中学校伝習館、豊津尋常中学校、久留米尋常中学明善校がそれぞれ規則を定めて四月始期を実施したのに、尋常中学修猷館は一八九五年から四月始期制を実施するというように同じ県内でも足並みはそろっていなかったというのも今なら信じられないおおらかな話だろう。
 まあ、伝習館、豊津、明善、修猷館というくらいしか福岡県には中学校はなく(これでも全国的には多い方であった)、小学校だけで終わる子どもたちがほとんどだったので多少の入学時期のずれは気にならなかったのかもしれない。
 ところで久米正雄の短編に「受験生の手記」というのがある。一九一八(大正七)年の作品で、当時の受験模様がリアルに描かれている。主人公は一高(第一高等学校=現在の東京大学教養学部の前身)の受験に失敗して一浪している青年である。しかも彼の弟もまたこの年に中学を卒業して高等学校を受験することになっていた。ちなみにこの頃の高等学校というのはすべて官立(=国立)で、第一高等学校から第八高等学校までの八校しかなく、高等学校を卒業すると帝国大学(東京、京都、九州、東北)のどこかに必ず入れるようになっていたのだ。その意味では庶民にはほど遠い存在でもあったが、いったん成功すれば立身出世がかなう場所でもあった。
 で、主人公の青年は前年の失敗の理由をかく分析している。

…卒業後の大切な数月を刺戟のない田舎で勉強しようとしたのが間違だつた。早くから上京してゐて、切迫した空気の中にゐたら、或ひは勉強ももつと緊張し、又受験術も巧妙になつてゐたかも知れない。

 四月になると中学を卒業した弟が上京して来てともに受験勉強にいそしむが、彼は再び失敗し、弟は合格とともに彼の恋まで奪ってしまい、青年は自殺をする、という話だ。この話で気づいたと思うが、中学の卒業が三月、高等学校の入試は七月なのである。小学校や中学校が四月始まりになってからも、高等学校と帝国大学は一貫して九月始期を堅持していたのである。高等学校と帝国大学が四月始期を採用するのはなんと一八一九(大正八)年からであった。ほぼ四半世紀の間中学校を卒業する時期と高等学校の入学の時期との間に三ヶ月余の時間差があったのである。現在は高校や大学の入試が中学校や高等学校の通常の学期に食い込み、三学期はまったく授業なんかはできなくなっている。まっとうな人は中学校や高等学校の授業が歪められるというし、ある人は教員としての本務を抛ち受験代行業みたいな雑務に三学期を埋没しているようだ。もしかつてのように始期がずれていれば、中学校も高等学校もきちんと三学期まで通常の授業ができる。受験勉強は卒業してからすればいいのだから。そうなると授業のできないセンセはすぐにばれるか。

posted by 河東真也 at 13:07| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする
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