2005年10月20日

はじめは二学期制だったけど…

 福岡市同和教育研究会の会長を努めていた松澤善裕さんという人は古いものを集めるのが趣味でして、時として教育関係の古文書なんかを見せびらかしてくれた。日本教育史を生業としている(よく覚えておいて!)僕としてはたいへんうれしいのだ。あるとき見せていただいたのは小学校の卒業証書であった。ちょいと紹介しよう。まず、「福岡県平民」と族籍入りなのだ。(「同和教育をやっているのにそんなものを紹介するのは赦せん!」などと怒らないこと、何しろ昔の話なんだから。)で、「何野某助」と名前があり(さすがに松澤さんは実名は挙げないようにと忠告してくれたので仮名。)、その左に「八年四月」とある。つまり八歳四ヶ月ということだ。本文は「下等小学第八級卒業候事」とまんなかに書かれ、「第五大学区福岡県管内 第三十三中学区鞍手郡 稲光小学」と学校名が記されている。問題は日付が「明治九年十一月」となっていることである。
 この人物の卒業証書はまだ他にあった。並べてみると七級卒業が明治一〇年一一月、六級卒業が一一年四月、五級卒業が一一年一一月、四級卒業が一二年四月となっている。こうやって並べてみると何か気づくだろう。そう、各級ごとに卒業という言葉が使われており、その卒業の時期が一一月と四月という中途半端な時期だということである。
 文部省の「小学教則」によればこのころの小学校は下等小学と上等小学に分かれ、それぞれ四年ずつの課程になっている。下等小学は全部で八級からなり、六ヶ月で進級することとし、進級は試験によって認定されるという仕組みだった。そう、日本の学校教育ははじめから(学期という言い方はしないけど)半年単位で進級する二学期制だったのだ。この小学校で一一月と四月に各級の卒業試験をして進級を決めていたというのはそういう仕組みを示している。しかし、それにしても中途半端な時期ではないか。
 で、もう一つの卒業証書を見てみよう。今度は「福岡県貫属士族」とあり、「誰田誰也」(仮名)と名前が書いてある。年齢は「当九月九歳九月」とあって九月時点で九歳九ヶ月であった。同じく「下等小学第八級卒業候事」と書かれているが、発行は「第五大学区福岡県管内 第三十四中学区夜須郡下秋月村 秋月小学」となっていて、日付は「明治七年九月」となっている。おやおやこんどは九月卒業と鞍手郡とは時期がちがう。どうしてかというと、明治九年に決められた旧福岡県(まだ廃藩置県の途中で、現在の福岡県は小倉県、福岡県、三潴県の三県に分かれていたのだ)の小学試験規則では上期試験を三月か四月に、下期試験を九月か一〇月にするように定められていたので鞍手郡と夜須郡では半期の区切り方にズレがあったというわけなのだ。
 ところが小倉県では一月一一日から七月一五日までと八月一五日から一二月二六日までが開校期間となっていて、福岡県とはかなりのズレがあった。また、小学校ではないけど、明治一一年に設置された福岡師範学校附属変則中学では二月と七月が定期試験の月とされ、この試験で進級が決まるとなっていたから、二月と七月に入学や進級や卒業の行事が行われていたと考えられる。
 このことからわかるようにこのころはまだ何月からはじまるということの全国的に統一された規則はなかったんだな。このように学校によって暦がちがうのは転校するということが考えられていなかったこと、小学校での学習が上級学校への進学とまったく結びついていなかったことを示している。横並びという発想がなかったのだ。学校の常識が今とはまったくちがっていたんだな。いったい誰が今の学校の横並びという常識をつくったんだろうね。


     


posted by 河東真也 at 12:25| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。