2005年10月17日

手本は二宮金次郎

 二宮金次郎の像って知っているだろうか。僕が子どもの頃は校庭にあったのを記憶している。働きながら書を読んだ姿から勤勉の象徴として教訓めいた話をセンセイから聞かされたような気もする。しかし、現在では福岡市内の144校の小学校中二宮金次郎像が存在するのは19校にすぎないという(FBS調べ)。
 かつては学校にはあったものというイメージもあったが、今ではほぼ淘汰されたとでも言うのだろうか。にもかかわらずこの像は「背負った薪の数を数えると呪われる」とかいうように子どもたちの怪談話でもけっこう人気のあるキャラクターであったりする(FBS調べ)というように学校にはけっこう大切な存在感をもったアイテムなのだ。ここでちらちらと放送局の名が出てくるけど、実は5月13日のFBSの「朝ドキッ!九州」という情報番組に不肖新谷が出演して二宮金次郎像の説明をしたのだが、その時FBSが福岡市内を取材してくれたデータだ。
 ところで、戦前の金次郎像には銅像と石像があった。二宮金次郎が学校教育と結びつくようになったのは国定修身教科書の中で取り上げられたことが大きい。尋常小学校の修身科教科書でその少年期の生き方が子どもたちの育つモデルとして持ち上げられている。さらに明治44年に刊行された唱歌の国定教科書には「手本は二宮金次郎」という歌が載せられ、修身科の内容を要領よくまとめた歌詞で彼の人物像を期待される国民像として子どもたちに見せつけていったのである。
 で、その唱歌を紹介しておこう。
1 芝刈り縄なひ草鞋をつくり、親の手を助け弟を世話し、
  兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎。
2 骨身を惜まず仕事をはげみ、夜なべ済まして手習読書、
  せはしい中にも撓まず学ぶ、手本は二宮金次郎。
3 家業大事に費をはぶき、少しの物をも粗末にせずに、
  遂には身を立て人をもすくふ、手本は二宮金次郎。
 なんとすばらしい尊敬すべき少年像ではないか。これを否定する生き方を今、組合運動からでも、「同和」教育からでも示せるだろうか。
 この当時、つまり日露戦争後の日本は物心ともに非常に荒廃し、例えば内務省は地方改良運動というかたちで国民教化を展開していた。そして国力増進のために資金を国民から調達するために倹約と貯金が奨励され、修身科における金次郎の実直な生き方はこの時代を生きる格好のモデルだったのだ。まぁ、真面目さが国策に利用されたと思えばいい。
 ところがこの像が普及したのはずっと下って昭和恐慌後であった。一つは富山県高岡の銅器製造業者たちが不況脱出のために金次郎の銅像を販売した系譜であり、もうひとつは愛知県岡崎の石屋たちであった。彼らは全国小学校長会に実物を持ち込んだり、文部大臣を賛助会員とする「二宮尊徳先生少年時代之像普及会」を組織して営業活動を展開したのである。おりしも金次郎生誕150年(昭和12年)、皇紀2600年(昭和15年)というイベントもあってよく売れ、金次郎像は全国の小学校の校庭を席巻していったのである。それなりの人や団体が地元の学校に金次郎像を寄附するのが流行だったのだ。国にとってはいわゆる満州事変が始まるなど戦費調達のために勤倹と貯蓄の励行が求められる時期でもあって毎日小国民(子どもたち)に語りかける金次郎像の効果は大きかったと言える。浪費(戦争)は国民の爪の先に灯した火で行われたのだ、教育の名を借りて。
 しかし、昭和16年の金属回収令によって銅像のほうは供出させられ、武器弾薬と化してしまったのは皮肉であった。さらに意外なことに戦後も占領軍は金次郎的人物を否定せず、むしろ戦後民主主義のために評価もしていた。だから僕の子どもの頃は石像の方はまだあちこちにあったのだ。徳目というのはどういう立場でも使えるものだというのも事実である。『人権読本』と『心のノート』のちがいが問われるのはこういうところではないだろうか。そんな金次郎像だが、現代では勤倹より消費が美徳だというので人気がないのかな。
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posted by 河東真也 at 18:54| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする
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