2013年02月11日

お暑い中でご苦労さん

 今年の夏は観測史上最も暑かったったそうな。この原稿を書いている9月になっても猛暑日が続いている。にもかかわらずいくつかの学校では運動会やら体育祭やらをやってたのには驚いた。暑い中でその運動会やら体育祭の練習をしている学校もあるんだろうね。
 それにしても運動会って何のためにやるんだろう。このくそ暑い中でさ。
 もとより運動会の始まりについては亡くなった福岡教育大学の平田宗史さんが明らかにしている。平田さんによると海軍兵学寮にやってきたイギリスの顧問団長のダグラスArcbald Lucius Douglas という人が「イギリスではAthletic Sportsというものがあって、種々の競技をなし、体育とレクリエーションの成るものであるから、これを実施されたい」と申し出たことがそもそもの始まりだったという。それで、Athletic Sportsを「競闘遊戯」と和訳して実施したのが明治7(1874)年3月21日のことだったそうな。
 そのときのプログラムを見ると18種目が並んでいる。最初は「雀雛出巣(すずめのすだち)」と題され、「十二歳以下ノ生徒ヲシテ百五十「ヤード」ノ距離ヲ疾駆セシム」とあるから、150ヤード(約137m)の徒競走ということになる。「神鷹捉?(わしのいなとり)」は「豕ヲ放チ奔馳ヲ追ヒ尾ヲ捉シテ之ヲ獲ルヲ努メシム」とあり、豚追い競争のことであるし、「須浦汲潮(すまのしほくみ)」は「頭上ニ水桶ヲ戴キ疾駆セシム」もので水桶競争とでも呼べばいいのであろうか。他に二人三脚、棒高跳び、三段跳び、肩車競争と思われる内容の種目があり、見るものを楽しませたらしい。
 平田さんはこの原型がイギリスにあり、祝祭日のイベントとして行われていたことをイギリスの文献から突きとめているのだ。まあ、もとよりお祭り騒ぎになるべきものだったんだね。
 このようにして始まった運動会だったのだが、これに軍隊的な演習の要素が盛り込まれることもしばしば見られるようになった。おそらくは軍隊的な教育を学校教育に取り入れようとした森有礼文相の施策の影響なのだろう。紅白に分かれての演習のスタイルがとられるのは軍隊的な影響のあらわれで、この頃からよく見られるようになった。
 とは言え、運動会がさかんに各学校で実施されるようになったのは20世紀に入る頃からだった。この頃から運動会はだんだんと地域のお祭り的な様相を示しはじめ、見て楽しむイベントとなっていったのである。それは本来の運動会の趣旨でもあるし、お祭りはみんな大好きだということかな。
 ところで、ちょっと話はそれるけれど、もとい人間の生活する集落(=ムラ)は自然村といって自然に人が群がって出来たものだった。そこでは伝統的に村の祭りが存在したんだけど、そうしたムラのあり方は近代国家の構築をめざす明治政府にとっては国家統一の妨げになると考えられたんだな。それで、いったんムラを解体して再編するということを繰り返したのである。廃藩置県(明治4年)、大区小区制(明治5年)、三新法(明治12年)、市制及び町村制(明治22年)なんかがそうだ。そのために伝統的な村の凝集力が失われてしまったのだった。しかし、結果的にこれは国家にとっても村人にとっても困ったことであった。
 そうした中で運動会は村人にとって格好の娯楽であり、新しい村の凝集力となったのだった。村人は学校で行われる運動会にお弁当や酒なんかを持って集まり、まさにお祭り気分でその日を楽しむようになった。ほぼ花見感覚と言ってもいい。このことによって凝集力を失った村は今度は学校を中心として再び一体となっていく。学校と地域が連携しはじめたと言っていいだろう。運動会は新しい地域作りの救世主と言ってもいいイベントとなったのだ。吉見俊哉氏はこの現象を「学校の祭りと地域の民俗的な時間が、日露戦争の頃から共振しはじめ、学校の祝祭日が民俗的な感覚で受容されるようになる反面、地域の時間の流れの中に学校の時間が年中行事として浸透していくのである」と説明している。そして運動会の開催は天長節(11月3日)や陸軍記念日(3月10日)、海軍記念日(5月27日)といった春夏の祝祭日に行われることが多かったのだが、これも学校を核として地域が国家に再編成されていく過程と見ればわかりやすいだろう。
 この運動会が戦時下に入ると再び軍事色を帯び、娯楽要素を除き、体育会とか錬成大会とかに改称して、観客を締め出していくようになったのだ。
 白幡洋三郎氏によれば「明治時代、『花見』『遠足』『運動会』は、すべて同様の催し物だった。何を主題に掲げるかによって命名にバラエティーがあったにすぎない。その本質は運動と娯楽との共存であり、スポーツとレクリエーションの未分化であった」のだそうな。ああ、昔はよかった。

 参考;吉見俊哉/白幡洋三郎/平田宗史他『運動会と日本近代』青弓社1999
posted by 河東真也 at 02:41| 福岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする
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