2013年02月11日

学校化現象という危機 第九章 学校化現象という危機 ん第九章 学校化現象という危機 学校化現象という危機

はじめに

 学校では一定の〈知〉が伝達され、学習者は知識を獲得し、また学校教育を通じて人間形成のある部分がなされる。これは学校に用意されたカリキュラムによって組織的に行われる営為である。しかし、学習者は学校の用意したカリキュラムによってのみ教育されるわけではない。たとえば、大学進学を目指す者がいわゆる進学校に入ろうとするのだろうか。高等学校の学習内容は国の定めた『学習指導要領』に基づいており、教科書も『学習指導要領』に準拠して編集されている。授業の水準に差があると言われても進学実績の高い高等学校の中にはほとんど受験向けではない授業をしているところもある。その高校生たちをして高い進学実績に至らしめるのは当人自身の努力のみではなくその高等学校の持つ高い進学指向の雰囲気であろう。そのように表面には記述されていない教育機能をhidden curriculum(隠されたカリキュラム)と呼ぶ。M・W・アップルらが言うように、hidden curriculumとしての学校文化が生徒の人間形成に与える影響は大きい。学校の教育機能を見るときこのhidden curriculumを看過することはできない。
 この講義の第三章「近代という教育思想」において就学率上昇と高校進学率向上の表を示した。就学率(進学率)が向上し、一〇〇%に近づくということはどういうことなのだろうか。第一に言えることは学校に行くということが当たり前の社会になっていくということである。明治末期には義務教育であり、昭和四〇年代には高等学校が日本の子どもたちにとっては「当たり前」に行く場所となっていったことが表からは読み取れる。すでに学んだように近代学校は近代という思想を具現化した組織であり、そこは独自の文化を展開する場でもあった。近代学校の持っている特徴について「第三章 近代という教育思想」において学んだように共通の教育目的とカリキュラム(国家意思の反映)、学習者のneedからの乖離、内容の百科全書化、方法としての一斉教授、管理主義的傾向などがあげられる。そうした近代学校の特徴は独特の学校文化を醸成する。そして、学校へ行くことが当たり前になるとそれはその社会の当たり前の文化となり、学校的なものの考え方が社会を変えていくということが起きてくる。
 アップルは近代学校教育に位置づけられたカリキュラムがイデオロギーであることと同様に、いやそれ以上にhidden curriculumのもつイデオロギー性は強いと言う。国策が(戦後教育改革のように)イデオロギー転換をしたとしても学校文化にもしくは教員文化に内在するイデオロギーは生徒の人間形成過程の根底を支えていると言うことができる。それはE・ジェルピが言ったことに通ずる指摘でもある。

一 「学校化」という問題
 一九七〇年頃にI・イリッチ(Ivan Illich)は『脱学校の社会』(東京創元社)という本を書いている。イリッチはこの本の中でwebという言葉を使っているが、訳者はこの言葉はなじめなかったらしく、とりあえずネットワークと訳す、と注記している。しかし、四〇年後の現代では当たり前の言葉となった。その先見性は注目すべきであろう。この本の冒頭でイリッチは学校は「目的を実現する過程と目的とを混同させる」ものであると言っている。学校化が進めば、すなわちこうなるというのだ。この「過程と目的の区別があいまいになると、新しい論理がとられる。手をかければかけるほど、よい結果が得られるとか、段階的に増やしていけば成功するといった論理である。」ということである。つまり、学校は本来の目的以上によけいなことをするようになると言うのだ。いや学校だけではない。学校化されるのは学校ではなく(既に学校は学校化されているものだ)、社会が学校化するのである。教育に関していえば、よけいなお世話をするのは教師であり、親であり、大学や高校(学校の卒業生の受け入れ先、という意味)、教育産業であり、建築業であり(子ども部屋付き住宅の普及)、マスコミであり、……よけいなことはいっぱいある。もちろんそれらはイリッチ以前から存在するが、この二、三〇年の間に急速に進んだように思える。で、イリッチは続けて言う。「このような論理で学校化されると、生徒は教授されることと学習することを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる」と。教育に対する勘違いが始まるのだ。ここに揚げているようなことは現代社会ではいっぱい起きている。換言すれば、子どもたちは学びに対して受け身になり、親たちは子どもの人生ではなく学歴だけに関心を持ち、教師たちは進学実績の向上にのみ邁進することになる、ということだ。学校化とは〈価値がその実現に奉仕すると主張する制度の活動と同じものだと誤解される〉ことなのである。

二 小学校における問題

 二〇〇九年四月二五日の朝日新聞の『天声人語』にこういうことが書いてあった。『青い窓』という児童の雑誌にこういう詩が載っていたという。

お母さんが車にはねられた
お母さんが病院のれいあんしつにねかされていた
お母さんをかそうばへつれていった
お母さんがほねになってしまった
お母さんをほとけさまにおいた
お母さんをまいにちおがんでいる
  (『青い窓』掲載の詩 小学校4年生 「天声人語」より転載)

 この子は詩の中で一度も「悲しい」とは書いていない。しかし、その悲しみは切々と伝わってくる。それはこの「お母さん」の繰り返しが効いているのだ。ところが担任の教師は「お母さんは一回でいい」と指導したそうだ。しかし、子どもはかたくなにそれを聞き入れなかった。そこでその教師は編集者にどうしたものかと相談したそうである。
 この詩を直させようという教師がいたということはひとつの驚きである。主語は一回でいい、とでも言いたいのか。その教師の文学力の貧困さについて議論するのはよそう。しかし、自らの貧困さを顧みず、子どもに意味不明の指導をしようと考えることの問題だ。そうやって作品をいじられた子どもが詩を自己表現の方法だとは思わなくなっていくだろう。創造の芽は教師によって潰されていくのである。この教師にとってはこのような雑誌に自分の指導した子どもの作品が載るのはひとつの業績なのかもしれない。子どもの詩をそのような成果物としてしか見ていないところにこの教師の発想がある。
 しかし、詩は子ども自身の感情の発露であり、詩の中に子ども自身の悲しみを読み取り、感じ取るものであるはずなのだが、この教師は何を子どもの詩の中に見たのであろうか。ここに前回示した「芸術教育にできること」の意味があるのだと言える。

二 中学校の管理教育

 中学ではもっと管理的である。
 某新聞社から電話がかかってきた。それはある親から苦情が来たのでどういうことか教えてくれ、というものだった。その親は高校入試を控えた子どもがいるのだろう。高校入試の願書の締切が十二月末なのにA君は正月明けでいいというふうに教師に言われたのだと言う。それは不公平ではないか、という苦情のようだった。記者氏は高校入試の仕組みがおかしいのかと思って訊いてきたのである。
 しかし、問題となっているのはは左のような事情のことであった。
 中学校では生徒の入試願書を提出以前に学校で預かり、チェックしてから一括して申し込むことにしているようなのだ。それでその中学校では十二月末に願書を書かせて「締め切った」わけなのだが(親にとってはこの時点が締切)、A君はいろんな事情で決めきれず中学校の某教員は正月明けまで待ってやると言ったのだということのようだった。つまりは新聞記者の期待していたように高校入試の制度上の問題ではなく、教師個人の進路指導の問題でしかなかったのだ。当然、その記者にとっては親と教師の痴話喧嘩みたいなもので記事にしようのない話でしかなかったのだ。電話の向こうから落胆の吐息が聞こえた。この事実は是非記事にして欲しいくらいの問題を孕んでいると思ったが、それは記者には伝わらなかった。
 高校入試というのは義務教育を終えた人間が自分の人生を踏み出す第一歩のイベントだ。そして高校入試は中学校の問題ではなく子どもたち一人ひとりの個人的な問題なのだ。そのことを忘れてはならないのだが、この中学校ではちがうようだ。この中学に限らず、現在の中学校の多くでは生徒の受験の結果には高い関心を示すが、生徒自身の人生には関心を持っていないように思える。
 高校の入学願書は子どもの個人の人生そのものだ。それを平気で預かり、管理するという神経が良識から逸脱している。おそらく受験先も三者面談とやらいうかたちで親と教師の談合で決めたにちがいない。ある学校では願書を生徒に書かせないところもあると聞く。もし書きまちがえて提出してしまったら一年を棒に振るかもしれない、という温情から出たもののようだ。いや書かせたにしても預かってチェックを入れるということ自体が個人の人生に対する介入だろう。子どもたちにとって入学願書は親と教師の問題であって、自分の問題ではない。(なにしろ苦情を言ってきたのは親であって子ども自身ではない)
 こうやって進まされた高校が子どもたちにとって魅力あるものにはならなかったとしてもおかしくはない。だから簡単に辞めてしまったとしてもおかしくはない。なぜならそれは自分の責任でしたことではないからだ。退学するときが初めての自己選択だと言っていい。しかも、決して前向きとは言えない場合のほうが多いだろうが。
 一年を棒に振ってもいいだろう。それだけの緊張感を持って自分の人生を左右する書類を書くことは義務教育を終えるにあたってもっとも重大な卒業試験なのかもしれない。そのことをその中学校はわかっていない。そして教育という仕事をほったらかして願書の管理という入試業務に走っている。これは公務員としては職務専念義務に反していることではないだろうか。
 話を少し戻そう。問題は入学願書という子どもの人生にかかわるものを親と教師が、ないしは学校が子どもを抱え込みすぎていることである。義務教育は子どもをおとなにして社会の一員と為すべき教育を行うところである。この行為を見る限り中学校がそういう役割を自覚しているかどうかはなはだ疑わしい。中学校を終える段階でおおむね親と教師は子どもを手放さなくてはならないのである。それが社会に対する責任だと言っていい。
 中学生はまだ子どもではある。しかし、十五歳には十五歳の人間の眼があり、価値観がある。それは尊重すべきであるし、いつまでも年長の人間が正しいわけではない。十五歳の人間の意見を聞く耳と十五歳の意見を言う力、この二つは両輪である。聞く耳がなければ意見を言う力は育たない。教師の力量が試されるのはここである。
 義務教育とは何であるか。十五歳の若者がこの社会で生きていくことができる人間的としての完成教育と考えなければならない。だからそれは権利なのである。

三 高等学校での学びの形骸化

 高校ではもっともっとすごいことになっているようだ。近頃、大学に入ってくる学生は習ったことしか知らないことを自信満々に語るようになった。世界史の未履修問題が話題となってしばらくたつが、受験のために受験対策用の知識を詰め込もうという姿勢が常識化していることの証左であろう。それが教師の口から当然のように伝えられるから、自分で判断するようには育っていない高校生たちはそのまま素直にそういう学び方をする。
 このことも僕はかなり以前から繰り返し言ってきたのだが、そういうやり方はアナログコピーを繰り返すことと似ていて、だんだん薄くなるのと同じように教師よりも薄い知識の人間しか育たない。
 失礼な話で恐縮だが、怒らないでほしい。もとい、高校の教師の学力が日本の知の先端にある例は多くはないだろう。しかも、大学卒業後知的研鑽に励んでいる教師はどれだけいるだろうか。その教師が自分より薄い知をコピーしていってどうなるのかは目に見えているだろう。低学力というのはこういう単純なところから来るのだ。
 学生が本を読まない、とぼやいていたら、「本を読む暇があったら勉強しろ、と高校では言われてきたので、何を読んだらいいですか」と言う学生に出会ったのはかれこれ15,6年前になるだろうか。その間、日本の教育はそのような負の再生産を続けているのだ。
 この手の教育は知の秩序を乱すような余計なことは教えない。生徒に疑問を持たせず、知の廃棄物を与えていくに限るのだ。たとえば物理を教える。受験対策とか、問題を解く、という観点ではなく物理の知を伝えている教師がどれだけいるだろうか。物理学の面白さは物理的事象との出会いにある。その意味が伝わらずに数学の延長としての問題の解き方を教えたところで知的関心は高まらない。知的関心のないところに新しい知は育たないのだ。東大進学率の高さを誇る東京の某進学校では理科の実験を重視していると聞いたことがある。実験を指導するには教師に高い能力が必要となる。なぜなら試験問題の解法ではなく、自然科学の研究体験がそこにあるからであり、その体験こそが知的体験なのである。
 先ほどのお怒りをもう一つ逆撫でしよう。教師というのは人にものを教えるのでついつい高いところから教えるようになる。お前もそうだろう、と言われたら、そうかもしれないと答える、かな。高いところから教えるのはたぶん年齢とかキャリアの分をそれなりにくすぐってもらいたいからで知の中身が優れていることを主張したいわけではない。
 改めて教育学の第一歩を言っておきたいが、教育というのは自分より有能な人間を育てることも重要な仕事だということだ。大学においては教師が自分の知識の注入だけを行っていては学生は全く伸びない。与えた知をもとに自分で考える時間と場を用意してやることが重要なのだ。そのために大学では実験や演習が存在し、ディスカッションや論文の執筆が組み込まれているのだ。
 しかし、高校では愚かなアナログ・コピーのためにひたすら時間を注ぎ込もうとしている。ゼロ時限があり、補習があり、生徒たちから時間を奪うことでコピーを完成させようとしている。無駄な努力でしかない。どうせあなたより賢い生徒は育たないのだから。もし育ったとしたらその生徒はあなたの言うことを聞いていなかったか、自分の時間を無理に作ったのだろうね。
 高校時代に必要なのは知的関心だ。大学を目指すものは学問に対する好奇心、社会に出るものは職業に対する好奇心を持っていることがまさに「生きる力」になるのだろうよ。読書を通じての知への接近、社会問題と正面から向き合うことで得られる社会的な知、科学との出会いがもたらす知。そうしたものが高校生活の中でどうしたら得られるか。教師には与えられるわけがない。教師にはそれを喚起し、支援することしかできない。ていうか、それができるのがプロ=職業としての教師というものではないだろうか。



前学期末のことだが、僕の講義の試験に不合格となった学生からメールが来た。「自分は評価がFであったが、それだとGPAの評価が下がり、将来の進級にひびく。だからDにしてくれないだろうか。自分はテキストも買ったし、授業にもきちんと出ていた」というものだ。僕はさっそく返事をした。「テキストの90 頁を見るように」。そこにはイリッチの上記の説明が記してあり、皮肉なことにそれはこの学生が不合格となった試験問題に出た部分でもあった。


問題4 イリッチの言う「学校は、生徒たちが過程と実態を混同するように学校化する」内容を具体的実例を挙げて述べよ

この背景には今大学が行っているGPA制度というものの影響がある。これは各科目
の評価点と単位数を絡ませて4 段階のスコア化したもので、学生を序列化するのに都合がいい。外国の大学などとの共通スコアを意識してかやたらと導入する大学が増えてきている。これは文科省が背後で推奨しているのだ。文科省が推奨する理由は大学の社会的責任として評価基準の明示と厳格な成績評価をするべきだというもっともらしい理由による。「もっともらしい」というのはイリッチの言ったまさに「進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること」のことだ。これを世の人々は真に受けてしまうので「もっともらしい」のだ。大学での評価は教員が見所があると思えばいいものであるし、研究能力などと言うものは点数では絶対にはかれない。いや、時として逆行することすらある。文科省の役人も、その言葉に「もっとも」と思ってしまう教師も親も世間の人々も皆学校化の論理に埋没してしまっていると言っていいだろう。

このようにイリッチの言ったとおりに学校化は進行した。学校が学校である限り、社会の学校化は必然でもあったのだが、このところ(イリッチ以降、ていうか、70 年代以降かな)促進させてきた要因、もしくは付随してきた現象がいくつかある。思いつくままあげてみよう。まずは親による子どもの私物化があげられる。これは少子化云々以前の問題であり、核家族化以後の問題である。おそらく家族のあり方が歴史的に変化しているのだろうと思う。子どもは親の私物となり、親の希望を満たすものとして位置づけられるようになった。だから教育の現場は親の意向に沿うことにならざるを得なくなってくる。しかも、親世代には未体験の世界に対して親の経験の延長上で指図をするようになっている。学校の問題で言えば、後期中等教育への進学率は70 年代に80 %を超えるようになった(それでもそんなものだったんだ)。それまで義務教育以上の体験のない親たちが後期中等教育に発言し出すことになる。大学教育はなおその落差が大きい。そして高校も大学も親の声には異論を唱えられずそれを受け入れていくようになった。学校化現象はある種の学校幻想を生みだす。イリッチの言う「進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること」という混同はまさしくこのように行われるのである。なぜならば学校の(いやらしい、かつ最近は流行の言い方をすれば)ステークホルダーたちは進級と免状にしか関心がないからだ。だから「手をかければかけるほど、よい結果が得られる」という学校化信仰が拍車をかけて注がれてくる。そしてそうした圧力に教員たちは抗しきれず、手をかける側にまわってしまう。それどころか進んで手をかけることに生き甲斐を持ってしまうのだ。教育には何かをすることの一方で何もしないという時間も必要だ。そうした緩急の妙というのが教師の力量であったのだが、急のみだけが評価の対象になり、緩は評価されない。なにしろポイントにカウントしにくいからだ。何時間教えたか、ということにのみ関心が向き、質は後回しになる。結果的に子どもたちは学びの主体性をどんどん奪われていく。多様な知的好奇心は剥ぎ取られて受験合格というゲーム的な達成感のみに置き換えられていく。まるでmixi で流行の漢字ゲームのようにである。いずれにせよ学校化の目指すところは子どもをおとなにしないことに尽きる。親も教師も常に手をかけ続けるから子どもたちは自らおとなになる契機を失ってしまう。おなかが痛くなって総理を辞めた人などを見れば、おとなになれないままに社会人となり、そのまま老いていく人間が増えているのだ。加えてまずいことに「学校化」された社会ではとりあえず「免状」を取ってしまえば学ぶ必要はなくなるから、その段階でおとなは学ばなくなる。学びから卒業してしまうのである。学校化の過程が終わった人間にはもはや学ぶ目的がないからだ。だからおとなは子どもたちの模範にならないのである。親はもちろん教師たちがどれだけ学ぶ生活をしているだろうか。あるところから聞いた話では本が売れないようである。いわゆる町の本屋に行けばマンガ本と週刊誌ばかりが並んでいる。最近は受験参考書ですら売れないらしい。なぜならば受験産業がそういうものまで用意して配布しているからだ。こんなことはいくらあげてもきりがない。
posted by 河東真也 at 15:32| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

お暑い中でご苦労さん

 今年の夏は観測史上最も暑かったったそうな。この原稿を書いている9月になっても猛暑日が続いている。にもかかわらずいくつかの学校では運動会やら体育祭やらをやってたのには驚いた。暑い中でその運動会やら体育祭の練習をしている学校もあるんだろうね。
 それにしても運動会って何のためにやるんだろう。このくそ暑い中でさ。
 もとより運動会の始まりについては亡くなった福岡教育大学の平田宗史さんが明らかにしている。平田さんによると海軍兵学寮にやってきたイギリスの顧問団長のダグラスArcbald Lucius Douglas という人が「イギリスではAthletic Sportsというものがあって、種々の競技をなし、体育とレクリエーションの成るものであるから、これを実施されたい」と申し出たことがそもそもの始まりだったという。それで、Athletic Sportsを「競闘遊戯」と和訳して実施したのが明治7(1874)年3月21日のことだったそうな。
 そのときのプログラムを見ると18種目が並んでいる。最初は「雀雛出巣(すずめのすだち)」と題され、「十二歳以下ノ生徒ヲシテ百五十「ヤード」ノ距離ヲ疾駆セシム」とあるから、150ヤード(約137m)の徒競走ということになる。「神鷹捉?(わしのいなとり)」は「豕ヲ放チ奔馳ヲ追ヒ尾ヲ捉シテ之ヲ獲ルヲ努メシム」とあり、豚追い競争のことであるし、「須浦汲潮(すまのしほくみ)」は「頭上ニ水桶ヲ戴キ疾駆セシム」もので水桶競争とでも呼べばいいのであろうか。他に二人三脚、棒高跳び、三段跳び、肩車競争と思われる内容の種目があり、見るものを楽しませたらしい。
 平田さんはこの原型がイギリスにあり、祝祭日のイベントとして行われていたことをイギリスの文献から突きとめているのだ。まあ、もとよりお祭り騒ぎになるべきものだったんだね。
 このようにして始まった運動会だったのだが、これに軍隊的な演習の要素が盛り込まれることもしばしば見られるようになった。おそらくは軍隊的な教育を学校教育に取り入れようとした森有礼文相の施策の影響なのだろう。紅白に分かれての演習のスタイルがとられるのは軍隊的な影響のあらわれで、この頃からよく見られるようになった。
 とは言え、運動会がさかんに各学校で実施されるようになったのは20世紀に入る頃からだった。この頃から運動会はだんだんと地域のお祭り的な様相を示しはじめ、見て楽しむイベントとなっていったのである。それは本来の運動会の趣旨でもあるし、お祭りはみんな大好きだということかな。
 ところで、ちょっと話はそれるけれど、もとい人間の生活する集落(=ムラ)は自然村といって自然に人が群がって出来たものだった。そこでは伝統的に村の祭りが存在したんだけど、そうしたムラのあり方は近代国家の構築をめざす明治政府にとっては国家統一の妨げになると考えられたんだな。それで、いったんムラを解体して再編するということを繰り返したのである。廃藩置県(明治4年)、大区小区制(明治5年)、三新法(明治12年)、市制及び町村制(明治22年)なんかがそうだ。そのために伝統的な村の凝集力が失われてしまったのだった。しかし、結果的にこれは国家にとっても村人にとっても困ったことであった。
 そうした中で運動会は村人にとって格好の娯楽であり、新しい村の凝集力となったのだった。村人は学校で行われる運動会にお弁当や酒なんかを持って集まり、まさにお祭り気分でその日を楽しむようになった。ほぼ花見感覚と言ってもいい。このことによって凝集力を失った村は今度は学校を中心として再び一体となっていく。学校と地域が連携しはじめたと言っていいだろう。運動会は新しい地域作りの救世主と言ってもいいイベントとなったのだ。吉見俊哉氏はこの現象を「学校の祭りと地域の民俗的な時間が、日露戦争の頃から共振しはじめ、学校の祝祭日が民俗的な感覚で受容されるようになる反面、地域の時間の流れの中に学校の時間が年中行事として浸透していくのである」と説明している。そして運動会の開催は天長節(11月3日)や陸軍記念日(3月10日)、海軍記念日(5月27日)といった春夏の祝祭日に行われることが多かったのだが、これも学校を核として地域が国家に再編成されていく過程と見ればわかりやすいだろう。
 この運動会が戦時下に入ると再び軍事色を帯び、娯楽要素を除き、体育会とか錬成大会とかに改称して、観客を締め出していくようになったのだ。
 白幡洋三郎氏によれば「明治時代、『花見』『遠足』『運動会』は、すべて同様の催し物だった。何を主題に掲げるかによって命名にバラエティーがあったにすぎない。その本質は運動と娯楽との共存であり、スポーツとレクリエーションの未分化であった」のだそうな。ああ、昔はよかった。

 参考;吉見俊哉/白幡洋三郎/平田宗史他『運動会と日本近代』青弓社1999
posted by 河東真也 at 02:41| 福岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

鍛えるのはお好き?

 今、サッカーのワールドカップを横目で見ながら書いているのだが、ワールドカップがこんなに燃えるのは、単に世界最高水準のプレイが見られるからではない。それなら最高水準の選手を集めたクラブチームの試合を見た方がいいに決まっている。ワールドカップが燃えるのは国別の対抗試合だからだ。国と国とが闘うところにワールドカップの醍醐味があるのだ。そんなことを言うと「ワールドカップは愛国心を喚起するからきらいだ」なんていう偏狭な精神のお方もいるかもしれないが、こういうときに目一杯愛国心でも何でも振りかざしてサッカーに熱中するのもけっこうなことだ。これで世界平和が保たれると考えれば、悪いことではない。
 おかしなことを言ったと思うかもしれないが、近代スポーツの発祥はこのあたりに由来するのだ。
 1688年の名誉革命で権利の章典が作成され、以後イギリスでは議会制度が始まったということは世界史で勉強したはずだ。議会制度は民主主義の基本だが、これの意味するものは暴力による政権奪取を否定したことなんだな。つまり、それまでは政権を取るのは暴力によるのがあたりまえであった。しかし、暴力で政権を奪うと負けた側の遺恨がいつまでも残るし、人の命がむやみに消費されることになる。それで、議会で多数派を取ることによる政権交代のシステムが成立した。これが議会制度である。武力ではなくルールに基づいた駆け引きで多数派を制していこうと画策するのであるから議会制度は政治をゲーム化したものだといえる。近代スポーツといわれるものはこうしたゲーム化した政治を身体化したものとして登場したのだ。
 言い換えるならば、近代スポーツはり民主主義そのものなのだ。このことは学校でのスポーツを考える上でもとても重要なことだ。
 学校教育の世界で体育会系というと上位下達の世界で、民主主義とはちょっと距離のあるような気がしないわけでもない。ビシバシと鍛え、先輩には絶対服従なんていうのもよく聞くし、体育会系の人間は脳みそまで筋肉でできているというような悪口も耳にしたことがある。
 しかし、大学では体操部の顧問を四半世紀務めている体育会系教員の僕としてはそういう誤解をここでは解いておきたい。スポーツは民主主義なのだ。
 しかし、日本ではスポーツがある段階でゆがんで利用されるようになったのだ。日本では近代スポーツは学校を通じて欧米から入ってきた。その頃のスポーツは将来の紳士たちの社交として広まったのである。
 ところが日本が軍国主義の中に徐々にはまりこんでいくとスポーツは国民の軍事化に貢献するものへと変質させられるようになったんだな。つまり教育の手段として利用されるようになったのだ。
 桑田真澄という人を知っているだろうか。そう、あの読売ジャイアンツで投手をしていた桑田だ。彼は今年早稲田大学の大学院で修士号を取ったのだ。桑田氏は修士論文の中で、プロ野球選手から採ったアンケートを分析し、その結果、日本の野球選手の育て方に疑問を投げかけた。桑田氏は現在の学校野球部で行われている野球は飛田穂洲(とびたすいしゅう)の提唱した「野球道」が今もまだ生きていると言うのだ。
 飛田穂洲とは戦前早稲田大学の野球部の監督を務めた人で朝日新聞の記者としても活躍した人だ。当時野球は敵性スポーツとして軍部ににらまれた。そこで飛田は「野球精神は一言にしていえば、死の練習によってつちかわれる。野球部愛、母校愛を強調することはとりもなおさず国家愛を教うるものであり、一致団結の団体精神は、一丸となって敵に当たるの心意気を示唆し、犠牲的精神は、喜こんで国難に殉ずべき暗示を与えるものに外ならぬ」といかに国家のための人間を作るのに役立つのかを主張して軍部の圧力に抗したのだと言う。そして野球道を提唱した。それは「練習量の重視」「精神の鍛錬」「絶対服従」なのだと桑田氏は言う。
 確かに飛田は野球を軍部から守った。しかし、それは野球を人間形成、つまり教育に利用することによってであり、スポーツの本質を歪めるものだったのだ。桑田氏はこの飛田の「野球道」が戦後も学生野球の中に残っているのだと指摘する。他のスポーツがよかったわけではない。他のスポーツは敵性とされなかった段階で帝国臣民の形成に役立つものとしてすでに魂を売り渡していたのだから。
 スポーツは戦争や暴力を行わずにルールを定めて楽しむゲームであり、スポーツそのものが平和と民主主義なのだ。スポーツは目的であって手段ではない。スポーツを手段にしたときスポーツは本質を見失い、民主主義の敵になるのだ。
 桑田氏は修士論文で飛田の野球道に替わるものを提唱しているが、それは彼の本を読んでちょうだい。
(参考;多木浩二『スポーツを考える』ちくま新書、桑田真澄・平田竹男『野球を学問する』新潮社)
posted by 河東真也 at 02:37| 福岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

社会科は暗記科目じゃない 社会科は暗記科目じゃない 社会科は暗記科目じゃない 社会科は暗記科目じゃない

 前回、最初の『学習指導要領』ができたころの事情を書いた。この『学習指導要領』で新たに示された教科のひとつが社会科だった。社会科は現在では地理、歴史、公民の分野について学ぶ科目だし、受験に際しては暗記科目とされてきた。ところが、社会科は戦後の新教育の目玉と言うべき教科だったのだ。なぜならば、社会科という教科は「民主主義社会の建設にふさわしい社会人を育て上げようとする」と昭和22年3月に発行された『学習指導要領 社会科編』(試案)には書いてある。だから、社会科はその当時、社会改造科とも呼ばれていたようなのだ(大田堯編著『戦後日本教育史』)。
 さらにこの『学習指導要領』では「社会科は,学校・家庭その他の校外にまでも及ぶ,青少年に対する教育活動の中核として生まれて来た,新しい教科」なのだ、と記されている。そして、国語、数学、理科等の科目との関係についても「社会科の授業の中に,他の教科の授業がとり入れられ,また他の教科の授業の際に,社会科のねらいが合わせて考慮されることは,当然のことであり,かえってその方が望ましいのである」としていて、カリキュラムの中の核となる教科と位置づけられていたのだ。
 当然暗記科目なんかじゃなかった。従来の修身、公民、地理、歴史といった科目がやっていた知識の詰め込みのようなやり方は真っ向から否定していたのだ。じゃ、どんなことをやろうとしていたのだろうか。新しい学校制度が始まる前の昭和22年1月16日、歴史的な社会科の実験授業が文部省の監督下で行われたのだ。場所は東京の新橋駅近くの桜田国民学校2年生の教室だ。29歳のまだ若い女性教師が担当した。この教師がやって見せたのはなんと郵便ごっこだった。子どもたちが手紙を書き、郵便局で切手を買い、これを汽車で運び、宛先地に配達し、また返事を書いて送り返す、という過程を子どもたちがごっこ遊びで体験する中で読み書きや計算などを学びつつ、社会の仕組みを理解していくというものであった。
 ということで、この実験授業は大成功だったみたいだ。それに気をよくした文部省は全国にこの実践をを広めていったという。
 ところで、僕の手元に『新教育研究発表要録』という劣化して壊れそうなガリ版刷り(どんなもんだか知らない人も多いんじゃないかな)の冊子がある。福岡第一師範学校女子部附属国民学校と書いてある。これは現在の福岡教育大学附属久留米小学校の前身だ。なんと桜田小学校の実験授業から一週間後の昭和22年1月23日~25日の三日間にわたって行われた研究発表会の要録なのだ。すごいだろう。これはたまたま当時教員をしていた方からいただいた貴重な史料なのだ。
 で、これをひもといてみると、当時の新しい教育への試みがいろいろ詰まっている。
 中でも社会科指導案として発表されたものは「楽しい私達の学級にする話合」(初等四年女子)、「新憲法」(高等二年女子)、「久留米の市会」(高等一年女子)、「私達をたすけてくれるもの」(初等一年男女)であった。そして驚くべきことに2日目に社会科ではなく自由研究(これも新設の教科なのだ)の指導案として「久留米の郵便局」(初等四年以上)という研究授業が行われている。これは自由研究社会研究部指導案となっていて3人の教員で共同で取り組むものとなっている。まずは郵便局を重要な社会機構と位置づけて学年ごとに異なったテーマの研究をした後でやはり郵便局ごっこをして遊ぶようになっていたのだ。さすがに附属小というところだ。久留米は全国の先端を行っていた!
 で、「新憲法」という研究授業。研究発表会では二回授業をしているのだが、一回目は前史として明治の新政についての授業なのだが「明治天皇の深き大御心を明かにする」という内容になっている。その上で新憲法の制定と内容について学ぶことになっているのだ。なんと新教育とは言っても人間の頭の中はそう簡単には変わるものではなかった。
 ということで、話を桜田国民学校に戻そう。一人の若い女性教師がこの実験授業という大役を引き受けたのは、彼女は以前に同様の教育実践の経験があったかららしい。それは合科教育というもので、大正新教育の中で始まり、戦時下の国民学校でも行われていたからである。国民学校では国民科、理数科、体錬科、芸能科と錬成のために教科を四つにまとめていた。ちなみに国民科の内容は修身、国語、国史、地理であり、戦後の社会科とほぼ重なる教科だったのだ。やはり人間の頭の中はそうそう変わるものではないということなのだろう。戦後民主主義の期待を載せた社会科も中身の変わらない教師たちによって形骸化する運命にあったのだ、ということかな。
 そういえば『学習指導要領 社会科編』(試案)には「(社会科は)青少年の生活に希望と生気とを与えるものである」とも書いてあった。読者諸君!教育が子どもたちの未来に希望と生気を与える日は果たして来るのだろうか。
posted by 河東真也 at 02:29| 福岡 | Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

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