2009年09月29日

新しい国歌をつくろう、ってか

 以前「君が代」について書いたことがあるけど覚えているかな(拙著『学校は軍隊に似ている』38頁に所収)。「君が代」は国歌ではなかったが、国歌のように歌われることで大きな歴史的役割を果たしてきた。
 しかし、敗戦となれば、その価値はぐっと下がった。しかも、戦争にうんざりしていた国民にとって日の丸や君が代はかなりうざい存在だったみたいだ。とにかくモノのない時代でもあったので、戦争前に各家庭で掲揚されていた日の丸は風呂敷や、あろうことかおむつなんかに転用されていたという話もある。
 それならば新しい国旗と国歌を作って戦後民主主義の改革をすすめてもいいものだったと思うんだが、誰もそんな気分にならない。まあ、喰うのに精一杯だったからね。そんなときは国旗や国歌なんかにかまってはいられないんだな。まあ、旗はおむつにできても、歌は使いようがないし、転用もできない。一部ではGHQの天皇制堅持の方針の中で歌われてもいたが、一般には、まぁ、忘れられていたとでも言っていいのかもしれない。
 ところが、だ。1950年5月に天野貞祐という人が文部大臣に就任した。吉田茂が懇請して入閣させた哲学者だ。天野は1937年、まさに日中戦争勃発と機を同じくして『道理の感覚』という本を出したんだが、その中で痛烈に時代を批評した。殊に修身教育(教員)や軍事教練(軍事教官)を批判している部分ところがあって、関係筋から袋だたきにあって自主絶版するという経験を持ち、戦後は教育刷新委員会の委員として教育基本法の作成に当たった人物で、自由主義者として知られていた。天野は文相になって5ヶ月ばかりたった10月17日に談話を発表した。それは国民の祝日には「国旗を掲揚し、国歌を斉唱することもまた望ましいことと考えます。又、各官庁、各家庭においてもぜひともこれらの祝日には国旗を掲揚し、祝意をしめされるようおすすめします」というものだった。そしてこの内容は全国の教育委員会に通達されたのだった。
 これに日教組は反発した。日教組が反発したのは国旗・国歌ではなく、「日の丸」・「君が代」だったのだ。じゃあ、「君が代」ではない国歌をつくればいいだろうということで、新国家制定の運動を始めることにしたのだ。当時法制部長だった槙枝元文が天野文相に抗議に赴いた際に、「新しい国歌を作りたい」と日教組の考えを伝えたところ天野も賛成したのだそうな。なもんで、日教組は翌年6月の第8回大会で新国歌制定運動を提唱したのだ。そして公募の結果、東京の小学校教員原泰子作詞、新潟の中学校教員小杉誠治作曲になる「緑の山河」が選ばれた。日教組(福教組)に入っている方は今でも歌われているからよく知っているだろう。
(一)
 戦争超えて たちあがる みどりの山河 雲霽れて いまよみがえる 民族の
 わかい血潮に 天を往く 世紀の朝に 栄あれ
(二)
 歴史の門出 あたらしく いばらのあゆみ つづくとも いまむすばれた 同胞の
 かたい誓に ひるがえる 平和の旗の 指すところ ああこの道に 光あれ

 ところがこの「緑の山河」は日教組の歌という性格がつよく、広く国民に広がることはなかった。
 しかし、独立後の1953年1月、壽屋(現サントリー)の専務だった佐治敬三が「新国民歌」の募集を提案したのだ。これには50,823の応募があり、採用されたのが「われら愛す」という曲だ(芳賀秀次郎作詞、西崎嘉太郎作曲)。
 一番だけ挙げておこう。

 われら愛す 胸せまる あつきおもひに この国を われら愛す
 しらぬ火筑紫のうみべ みすずかる信濃のやまべ
 われら愛す 涙あふれて
 この国の空の青さよ この国の水の青さよ

 しかし、この「われら愛す」も盛んに広められたが、数年後には人々の耳から遠ざかっていく。それはやはり日教組とか壽屋といった特定の団体・企業が募集したもので、国民の総意というわけにはいかなかったからかな。やはり、国歌は国がつくるものなのだろうか。なにしろ、国を愛する歌だからね。

参考文献;田中伸尚『日の丸・君が代の戦後史』岩波新書
生井弘明『「われら愛す」―憲法の心を歌った“幻の国家”』かもがわ出版
槙枝元文『槙枝元文回想録』アドバンテージサーバー
(文中敬称略)





posted by 河東真也 at 18:47| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

赤い鳥逃げた?

 「あゝ、日本の児童は入学の当初から呪われている」と北原白秋は日本の唱歌を嘆き、その唱歌の精神で形づくられているところの日本の学校を嘆いた(承前)。実はこの頃の白秋は子ども向け雑誌『赤い鳥』に自作の童謡を発表し、また子どもたちが投稿してくる詩の選者もつとめていたんだな。その事情をちょいと説明しよう。
 大正7(1916)年2月16日、親友の鈴木三重吉という男が白秋の家に来た。何か頼みごとがあるようであった。訊くとそれは新たに子どものための雑誌の創刊に関することであった。つまり三重吉は白秋に童謡をつくれと言ってきたんだな。歌人として名をあげていた白秋に童謡を作れと言うのは、まあ、親友だから言えたことかもしれない。
 この鈴木三重吉がこの雑誌を創刊したことについて「すず伝説」というのがある。鈴木三重吉は夏目漱石門下の小説家で、なかなか売れないものだから中学教師をしながら小説を書いていた。そして長女すずが生まれた。すずに物心がつくようになると三重吉はすずのために読んで聞かせる書物を探したが、なかなかそれにふさわしいものはなかったんだな。そこですずのために自ら読み物を書いてやろうと思った、というのがいわゆる「すず伝説」として伝わっている話である。
 その真偽はともかく、その当時の子ども向けの読み物は巌谷小波なんかによって拓かれた少年文学というものが主流であった。名前くらいは聞いたことがあるだろう。これはこれでおもしろいものなのだが、三重吉は不本意であった。三重吉によれば、それら少年少女向けの読み物や雑誌は俗悪な体裁をしていてとても子どもに買って与えるものとは言えなず、内容も下品であり、表現も下卑ている、と言うのである。三重吉は日本人はこれまで哀しいことに子どものための芸術家を持ったことがないとまで言い切り、芸術性を重んじた童話と童謡を創作する文学的運動として子ども向けの雑誌の発行を思い立ったわけだ。
 すでに歌人として名声を得ていた白秋はどうしたかというと、すんなりこの話を受け入れたようなのだ。この時の白秋は経済的な事情を含めて短歌に見切りをつけかけていた時だったらしく、すぐ翌日にはこの雑誌の名を提案する手紙を三重吉に送っている。雑誌は『赤い鳥』と名づけられ、その年の7月に創刊した。
 『赤い鳥』は画期的な雑誌だった。執筆者には白秋を始め、島崎藤村、芥川龍之介、泉鏡花、小宮豊隆といったそうそうたる顔ぶれを並べた。なんと芥川龍之介の「蜘蛛の糸」はこの創刊号に載せられた作品なのだ。「蜘蛛の糸」は知っているよね。桂枝雀が「茶漬えんま」という落語でそのパロディを演じているので一度鑑賞してごらん。ともかく『赤い鳥』はまもなく3万部という当時としてはたいへんな売れ行きを示すことになったのだ。
 ところで、『赤い鳥』のおもしろいところはそうした子ども向け文学作品を掲載したことだけではなく、子どもたちに作品を投稿させて掲載したことなんだ。そして、白秋は童謡や詩の、三重吉は綴方の選者をした。彼らは子どもたちから寄せられた作品に批評を加えて掲載するという形でものを書くことの指導をしていったのだ。白秋はそれまでの五七調といったような定型にとらわれず、自由に詩を書くように言い、それを児童自由詩と称して広めていった。三重吉も子どもが思ったこと、あったこと、言いたいことを口で話すように自由に書くように指導した。そして詩や作文を芸術として位置づけ、それらを創作することで人間性を高めていくことを目的とするようになっていった。
 ものを書くということはただ事実を伝達することではなく、自己表現であり、芸術活動なのだというのが二人のモットーだったのだ。それはこれまでの型にはまった表現や伝達のための作文とはまったくちがった分野を子どもたちに与えるものだったわけで、白秋が型にはめるのが大好きな学校を憎んだのはこういうことだったんだな。
 まあ、しかし、芸術性を求めた『赤い鳥』は都市中間層、つまりええとこのボンボンやお嬢さんが主たる読者だったこともあってその後伸び悩んだ。かわりに大衆向けの『少年倶楽部』が30万部以上も部数を伸ばし、世は大衆路線へとなびいていったのである。
 ああ、赤い鳥は何処へ飛んでいったの?
参考;三木 卓『北原白秋』筑摩書房 2005
   河原和枝『子ども観の近代』中公新書 1998年
ちなみに標題は1973年の東宝映画『赤い鳥逃げた?』から借用した。
      (藤田敏八監督、桃井かおり・原田芳雄主演だけど、知ってた?)
posted by 河東真也 at 18:43| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

あゝ、日本の児童は入学の当初から呪われている

 前回、山本鼎のことを書いた。
〈不自由の反対が自由〉
 そう言って、山本鼎は児童自由画というものを提唱した。山本は画家である。美術の専門家だから美術が学校の中で図画なるものに歪められ、「何かの役に立つもの」として扱われたことが不自由の原因であることを山本は見抜いていた。確かに今でも答の決まっているように思える数学や、法則があるかのように見える理科、覚えてしまえばいいような社会科、いずれも何かの役に立てようと扱ったところで不自由になってしまう。学校というところはどうにもそうやって何もかもつまらなくしてしまうところらしい。しかもそれは単につまらないかつまらなくないかということではなく、子どもの人権にかかわることなんだな。
 で、小説風に…
 山本鼎の妻家子の兄である隆吉は鼎の話を聞くと、自分の少年時代を思い起こした。裕福な酒屋の息子として生を受けた隆吉は乳母に連れられて始めて学校の門の前に立ったとき恐怖で泣きわめいたという。彼は首席を通して尋常小学校を卒業するが、にもかかわらず、卒業式の日に学校の門を出るとき旧友たちと学校に向かって「バカ学校!」と叫んだという。それはなにゆえであったか。隆吉は一篇の唱歌を読み解いたとき、その理由がわかった。その唱歌は次のようなものであった。
学校
1.私の学校よい学校よ 教場広い 庭広い
  掛図やご本やいろいろな 珍しいものたくさんあって
2.私の先生よい先生よ 私たちをかわいがり
  読み書き算術いろいろな よいこと教えてくださいまして
3.私の友達よい友達よ 毎日仲良く元気よく
  遊戯やなにかいろいろな おもしろいこと一緒にやって
 読者諸君は何か感づいたかな。山本鼎の義兄である北原隆吉。何を隠そう、世に北原白秋として知られる歌人、詩人である。もちろん柳川出身だということは福岡の人間なら誰でも知っているだろう。白秋は山本鼎の影響を受けて「詩、絵画、音楽の三つの芸術が児童の美的情操を薫養する上で何より重要である」とかなんとか言ってこの「学校」という唱歌の分析を行ったのである。
 白秋の分析はきびしい。よい学校とはどんな学校か、よい教師とはどんな教師か、よい友達とはどういうやつか。こういう問いを投げかけながらこの唱歌はとんでもないまちがいを子どもに植え付けようとしている。設備の完備した学校が果たしてよい学校なのか、子どもたちを生き生きとさせるものについて語らずに外形的物質的なもので学校の良し悪しを歌っているではないか。よい教師とは…かわいがると言っても母親のような愛情があるか?ものを教えると言っても問題を解くテクニックだけで知識の中にある精神は教えていない。子どもの知識欲にひびくことはしていない。ただ、視学(指導主事みたいなもの)にべんちゃらを言い、自分の虚名だけにしがみついているじゃないか、と。そしてよい友達とは…よい友達とは歌詞のように仲良しだけでいいのか。この社会の公人としての関係性は与えられているのか。いないだろう。
 白秋は言う。この歌詞の中から浮かぶのは血の通っていない、紙製の教師や生徒が糊付けされて作られた人形の学校でしかないと。そして白秋は子どもたちを「その成人(つまり教師というおとなだ)の規定した頑固一点張りの教育方法によって絶えずその強圧と掣肘と束縛とを受けねばならぬ精神的幼年囚」だとみなし、その成人監守の下に建てられた児童の牢獄の中で、子どもたちは悲哀と失望と憤激と反感を感じざるを得ないだろうと指摘したのだった。
 そして白秋の出した結論は
〈あゝ、日本の児童は入学の当初から呪われている〉だった。
 現在のわたしたちの学校が白秋の批判した頃の学校と比べてどれだけよくなっているだろうか。よく考えてみよう。
参考;北原白秋「小学唱歌々詞批判」(『芸術自由教育』1-10,1921.11)
posted by 河東真也 at 18:41| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

芸術は教えられるか

 学校というところは何でも教えてくれる。だから教師は何でも教えられる。われわれの中にそういう驕(おご)りはないだろうか。……僕にはある。教師稼業をしていると、何でも教えるのが当然のようになり、つい滔々(とうとう)とあることないことを語ってしまう癖が身に付いていて、時折、真実を知っている人たちから顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまうのだ。
 先般知ったところによると、道徳のテストが出回っており、「福岡県内では、小学校46校、中学校5校で実施された」(朝日新聞、2008.4.10)のだという。それで偏差値まで出るそうなのだから笑止千万なのだが、嗤(わら)ってもいられない。この業界では、そういうものが通ってしまう恐ろしさがあるからだ。なにしろ、愛国心評価の通信表が使われていた土地柄なのだから。
 もっとも、自分の道徳性も知らずに子どもに道徳を教え、かつ評価しようなどという、大それた不道徳な方々が世の中には溢(あふ)れているようなのだ。
 道徳もさることながら、芸術的教科などというのも学校には存在し、これもまた数値化しにくい教科である。道徳であれ、芸術であれ、その中に価値を含んだものというのは評価が難しい。何をどのように評価したらいいのだろう、と悩むことなく、音楽や美術(図画工作)に点数をつけちゃってはいないかな。
 明治14年に出された小学校教則大綱には、図画が登場している。この頃の図画というのは、「眼力と手力を鍛え、斉整・清浄美麗の感性を育て、職業的に技巧と発明の想像力を起こさせる」と当時の指南書には記されていた。加えて、「博物・地理・幾何のようなものの形を扱う教科の役に立つ」、つまり、他教科の補助教科という位置づけも得ていた。その典型が、臨画という教授法であった。これは、手本を見て、位置や形などを手本と全く同じように模写する方法で、こういう教育が当時の学校図画教育の常識だったのである。これだと評価はしやすい。教師には楽である。
 ところが、こうした臨画中心の図画教育を批判した人物がいた。山本鼎(かなえ)という画家であった。山本鼎は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を出た後、版画家として活躍していた。失恋を機にフランスに留学して、モスクワ経由で帰国したのが大正5年のことであった。山本鼎は帰国すると、父親が医院を開業している長野県小県郡神川村(現在の上田市)に戻り、ここで学校教育の現場と遭遇する。彼は、臨画中心の図画教育に呆れ果てた。これはあまりに不自由な教育ではないか、と思って地元の教師たちと語り合い、大正7年12月、神川小学校で「児童自由画の奨励」と題する講演を行ったのである。
 山本鼎は、臨画中心の図画教育は不自由であるゆえにまちがいである、子どもの中には可能性の芽がある、それを育てるには子どもの目で捉えた自然や想像の世界を自由に描かせるように指導すべきだ、と訴えたのである。そして、児童自由画展覧会を開催するに至った。これはけっこう評判となり、彼は日本児童自由画協会を設立して、自由画教育の普及に努めた。
 山本鼎は、自由ということを強調したわけではない。臨画教育が不自由すぎるから、その反対として自由を言ったまでのことだった。模写では個性的表現が制限される。これではダメだと言うのだ。手本は自然であり、これを自由に描くことが大切であり、子どもをそこまで引き出すのが教師の仕事なのだと言う。
 ここには、教えこむという教師の常套(じょうとう)的姿勢は見られない。彼の指導は、子どもが自由に描くことのできるようにいろいろな講話をしたり、映画、幻灯、写真、実地見学など、子どもの感性を磨く学習を重視し、そこから絵画の技法を見つけさせるという方法を採った。
 もうひとつ重要なことは、山本鼎が図画教育の目的を何においたのかである。彼は、図画教育は美術教育であり、美術教育は美的感銘と想像力にある、即ち目的は美術そのものである、とした。何かの補助教科の位置から、図画教育をすくい上げたのである。それにしても、図画教育はおろか、現在の教科教育自体が何かの補助教科になっていやしないか。補助教科だから教師は教えこむことができるし、子どもの芽を潰(つぶ)すこともできるのだ。
 彼の立ち上げた日本児童自由画協会は、まもなく日本自由教育協会と改称した。そう、芸術を教えるとは、教育それ自身を意味していたのだ。以(もっ)て瞑(めい)すべしかな。

参考;上野浩道『芸術教育運動の研究』風間書房 1981
posted by 河東真也 at 18:38| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。