2008年02月24日

新年はこころを引き締めて

 あけましておめでとうございます。
 年の初めはキリリと「こころ」を引き締めなければなりません。それには何と言っても「教育勅語」しかないでしょう。(はぁっ?)先般ある方が訪ねてきて「某教科書には教育勅語を載せていて、実にけしからん」といきどおっていました。確かにお怒りはごもっともなんですが、僕なんかは講義のときに教育勅語をプリントしてばらまいているくらいなので、むしろ「いい教科書かもしれない」なんて思っちゃったりして。教科書はよく言うように「教科書を教えるんじゃなくって、教科書で教える」って考えるのが妥当でしょう。そうでないと教師の力量は育ちませんから。
 で、その教育勅語ですが、あれはよくないと言いつつちゃんと読んだ人も少なく、国粋派の方々から「親孝行のように良いことが書いてある。その美しい日本のこころをダメにしたのは戦後教育だ」なんて非難されると、「そうかもしれない」なんて思う人だってけっこういるのです。で、教育勅語ってどんなものか読んでみようよ。なにしろたった315文字だし、紀元節も近いし。
 まず教育勅語は「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠二徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我力臣民克ク忠二克ク孝二億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実二此二存ス」(わてが思うに、わての祖先がこの国を作ったときに考えたのは忠孝という徳だ。我が臣民は忠孝ということに心を一つにして代々その美しさを整えていかないかん。それが我が国の教育の根っこなんだ)という部分からなる。で、続いて「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」(おまえら臣民は仲良くしぃ)「恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」(自分にきびしく人にやさしくしぃ)「学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ」(よく勉強して立派になりぃ)「進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」(そしたら進んで世の中のためになるように、そして国の言うことに従うこと)と臣民(=国民ではなくて〈臣〉民ですよ)のつとめとして立派な人間になることをあげているのだ。けっして単純に人間として立派になれと言っているのではない。親孝行程度のことを勧めるのなら教育勅語でなくてもいいだろう。
 で、肝心なのはここだ。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」(そしていったん何かあるときは国のためにたたかえ!それがわてのみならず代々の天皇家のためにもなるのじゃ)と言う。ところがここでミソが付いた。なんと文法上のまちがいがここで起きてしまったのだ。さて、わかるかなぁ。Hセンセみたいな国語のセンセだったらきっとわかると思うんだけど。
 実は「一旦緩急アレハ」と已然形になっているが、ここは未然形で書くのでなければならないところだ。「一旦緩急アラハ」とね。でないと毎日戦争中みたいなことになってしまうだろう。のちの人びとは教育勅語を有り難がっていたけれどもこういうぞんざいな作り方をしていたことはよく胸にとどめておこう。
 そしてまとめは「斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」(これが天皇家の真実の教えなんだから、臣民も誰がなんと言おうときっちり守ること)となる。この教えは絶対正しいという自信はたいしたものだけれど、「中外ニ施シテ悖ラス」、つまり国外でも変わらずにやれ、というのは侵略主義と言われてもしかたないよね。だから、こういうものが戦前の教育の実に巧妙な小道具だったことを忘れちゃならないのだ。
posted by 河東真也 at 15:51| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

民主主義の体験

 あけましておめでとうございます。一昨年末に教育基本法が作り直されるのを見過ごしてしまい、昨年は参議院選挙で大変動が起き、突然首相が職を投げ出したり、政界は大騒ぎだったね。今年もはや総選挙の噂が流れているけれど、国民の実際の関心はどんなものなんだろうね。
 こういう流れを横目で見ながら僕は日本の民主主義があぶない、と思うのだ。というのはこのところの選挙の投票率を見てみるといい。この15年くらいは衆参両議院選挙共に70%を超えることはなくなった。地方自治体の選挙なんて目もあてられない状況だ。殊に若い世代の投票率の低さは顕著だ。これはどうしてなんだろうか。ちゃんとした民主主義が育っていないのではないだろうか。
 何年か前に某県の中学校の社会科の授業を見た。生徒たちに模擬選挙をさせるもので、事前に教師が指名した候補者(男子生徒ばっかり)がチャラチャラした演説をしたところでクラス全員で投票するというものだ。一緒に見学をした学生たちは「おもしろい授業だ」と感想を述べていたが、僕は思わず「この学校に生徒会はないのかぁ!」と叫びそうになってしまった。
 『学習指導要領』をめくってみると、生徒会活動については「学校生活の充実や改善向上を図る活動,生徒の諸活動についての連絡調整に関する活動,学校行事への協力に関する活動,ボランティア活動などを行うこと」とある。しかも「教師の適切な指導の下に,生徒の自発的,自治的な活動が展開されるようにすること」という指導上の注意がついてね。しかし、戦前から生徒がこの程度の自治活動をするものはあった。それは校友会と呼ばれていたのだが戦時体制の中で解散させられ、学校報国団という形になって戦争協力の組織となってしまったという経緯があるんだな。
 これはまずいよね。それで戦後やってきた占領軍はこのような学校の生徒自治のあり方に疑問を抱き、生徒自治会を作るよう指示したという。そこでまもなく全国の小、中、高等学校に自治会と称する組織が発足した。指示を受けてのものもあったろうし、自発的に行ったものもある。來島靖生氏の回顧によれば修猷館高校では1947年の初夏あたりから生徒の中から自治的組織の立ち上げの動きが始まり、翌年に自治委員会を組織しているし、まもなく福岡地区高校自治連盟というものも結成されている。(『修猷館二百年史』)
 で、文部省としては、占領軍の指示で勝手に児童、生徒が自治会を作っていくのをほうっておくわけにはいかない。こうした動きを受け止めて学校教育の中に位置づけた。それを『中学校・高等学校 管理の手引』という出版物の中に書き込んでいる。そこには「各新制中学校・高等学校の管理には、実際に生徒を参加させるべきである」として特別教育活動(生徒会)を位置づけた。また、「『生徒自治』という言葉は、誤解と誤用の心配があるゆえ、決して用いるべきではなく、『生徒の学校の問題への参加』という言葉の方がよい」として生徒会という名称を用いている。何か自治という言葉におびえるところがあったらしい。
 とは言え、これに基づいて1949年に刊行された文部省学校教育局『新制中学校新制高等学校 望ましい運営の指針』には「特別課程活動の最も重要な目的の一つは、公民性の教育にある。もし学校の機構が独裁的になっていれば、その学校の生徒は民主的生活について何の価値あることも到底学び得ないであろう。」と生徒会活動の目的を明記し、「公民への教育は、単に政治についての本を読んだり、知識を得るだけでは達せられない。そのためには、生徒は、投票することによって投票ということを学び、実際に指導者を選ぶことによっていかにして指導者を選ぶかを知り、自分たちの事柄を取扱うことによってその取扱い方を学び、責任を与えられることによって責任ということを学ぶ。一言でいえば、なすことによってなすことを学ぶのである。」と断言している。
 つまり、文部省が自治会を教育的に読み替えた生徒会は公民になるための教育、すなわち政治学習の場だったのだ。いつのまにか公民としての教育を骨抜きにしていったのはいつからなのだろうか。投票率が落ちたのは1990年代に入ってからで、兆候は1980年代から見られる。その辺から察するに、たぶん1970年代半ばからの公民教育が変わったんだろうと思う。何が変わったのか。団塊世代のセンセイたちよ、胸に手を当てて考えてみて。今があたりまえになる前に。

posted by 河東真也 at 15:46| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

PTAはたのしい

 前回書いたように、学校が父兄会なんかを作って「学校と家庭との連絡を密にする=学校のただしさを親に伝えていく」というのが日本の学校教育の基本だった。父兄会だけじゃない。母姉会というのもあったし、保護者会、学校後援会というようなものもあった。まあ、父兄という言葉には母親はいないし、母姉という言い方は明らかに女性の役割を固定化したイメージがあるよね。学校後援会なんていうのはそうした戦前の学校と親の関係を象徴的に示した組織名だ。つまり、学校、教職員の支援(金銭面も含む)をする組織であり、学校に従属する団体だったのだ。結果的に学校が戦争に向けて突っ走っていったときに親が子どもの命を守れず、逆に子どもを親の手で戦場に追いやることになってしまったのだ、とも言える。
 校長の言いなりに学校に奉仕することだけを考えているPTAがあるとすれば、気をつけた方がいい。また、PTA新聞を検閲したがる学校があれば気をつけなければならない。そういうところから学校がおかしくなっていくし、それは子どもの命にかかわってくるのだから。
 PTAというのは日本語では父母教師会(最初は「父母と先生の会」と言った)、戦後に始まったものだ。敗戦直後の日本にアメリカから教育使節団というものがやって来て日本の教育についていろいろ意見を残していった。それを『米国教育使節団報告書』というのだけれどその中にPTAのことが書いてある。それは「子どもたちの福祉を増進し、教育計画を改善するため」の「親と教師の団体」であり、「成人教育」の場であるということだった。この意見に基づいて文部省は1947年3月に「『父母と先生の会』資料」なるものを都道府県に配布した。これがPTAの出発なのだ。
 「『父母と先生の会』資料」にはPTAというのは子どもの幸福の実現のために親と教師が共に学び、手を取り合って行政に働きかけていくのが目的だというふうに書いてある。そして戦前の学校後援会や父兄会が、学校の教師が説明や注意したことを親がうけたまわるという受身的な立場であったことを批判し、教師と父母が対等の立場になることを要求していた。だから教師は自らPTAの会費を払って会員となっているのだ。それが負担という人がいるかどうかは知らないが、そのことで教師は学校という組織や教職員組合といった柵(しがらみ)から離れ、個人的立場で親と同じ目線で子どもの教育について語れるという自由を得たのである。親もまた、教師と対等に自分の子どもの教育を語れるようになったのだから,これもまた学校教育に対する権利と自由を得たのだ。PTAは自由を享受(enjoy)する組織なのだ。
 ところが、自由というのは憧れだけれど、いったん手に入れてしまうと持て余すものみたいなんだな。親も教師も子どもの教育について語る自由を享受しているかというとどうだろう。自由であるより誰かの言いなりになる方を選んでしまう。校長の言いなり、組合の言いなり、地域ボスの言いなり、世間の言いなり……そのくせ、勝手とわがままはお好きなようで,個人的にクレームをつけたがる人はどんどん増えてるみたいだ。
 そうじゃなくって自分の子どものことを、自分のクラスの子どものことを大切に思ったら親も教師もPTAに結集して、子どものために語り、力を合わせるべきなのだ。しかし、親も教師もいやいやPTA活動をしてやしないか。
 僕なんて単純に目立ちたがり屋なので、役員を頼まれたときには二つ返事でOK。しかもヒラ委員じゃダメ、委員長になる!なんて手を挙げていたくらいだからね。成人教育委員長から始まって、広報委員長もやった。PTA会長は3年間やった。上の子どもが卒業したら下の子どもが入学することになっていたので「6年やれるな」とひそかに思っていたら、副会長さんから「人間、潮時が肝腎よ」と諭されて渋々辞任したあの日が懐かしい。それに某小学校の『十年史』なんていうのも作ったりしたな。その分、我が子(その友だちを含めて)のためにがんばった喜びがあったし、ものすごく学ぶことが多かった。それにたくさんの先生たちと仲良くなることができた。そしてそれは僕の人生の財産でもある。こんなおいしいことがそこにあるんだから、とうちゃんもかあちゃんもセンセもPTAをもっと楽しもうよ。

                     参考文献;『千鳥小学校十年史』1990



posted by 河東真也 at 15:43| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

子どものむかし・いま・あした

 いろいろと起こる子どもたちの問題に、さまざまな意見が交わされています。「学校が悪いからだ」とか、学校に言わせると「最近の親はろくでもない」とか。学校の間でも、同じ子どもを相手にしているのに、小学校の先生は「あんなかわいい子が、中学に行くと荒れちゃうんだろう」とか、中学校の先生は「小学校はろくでもない子を送ってくる」とか。僕も言います、「小・中・高の教育でろくでもない子どもを送ってくれた」と。でもそれは愚痴で、このようなことをいくら言っても何の生産性もない。じゃあ自分はどうするのか、私はどんな子育てをするんだとか、自分の学校ではどういう教育をするんだ、ということが大切です。それを「オルターナティブ【alternative】」と言いいます。“対案”をたてるという意味です。
 子どものいじめや自殺の問題は、今、たまたまマスコミに載ったというだけで、実はずっとおこっています。十五~十六年前に「葬式ごっこ」として、センセーショナルに取り上げられました。いろんな形で命を落とすこともあれば、幸い命は落とさなくても、人生を棒に振るくらいの打撃を受ける子もいっぱいいるわけですから。その後もずっと事件はあっています。
 昔、医療が発達する前は、おそらく今の7割くらいの子どもは亡くなっている、そういう時代でした。生まれて半年もすると、熱を出してよく病院に通います。今は少子化傾向ですが、学校に上がると病気をしなくなって大体二十歳くらいまでは元気です。僕らのように年をとって死んでも、そんなに悲しい話にはならないんですが、未成年の子が亡くなるというのは非常に悲しい。そして、子どもがどこで死んでいるかというと、いくつかの問題が学校と絡んでいます。

 一月の終わりに、福岡県内のある場所で、子どもがいじめを受けて自殺しました。クラスの友だちが亡くなったから、みんなお葬式に行きたいと思いました。学校は入試の直前だったから、葬式に行かせなかったんですね。先生のコメントが載っていました、入試直前で「これで子どもたちに動揺が走らなければいい」って。警察の配慮で、加害に回った子どもの取り調べは、入試が終わるまで待ってくれたそうです。変でしょう、自分の何らかの影響で友だちが自殺したら、自分の入試があったって、まず自分の気持ちを説明するとかいう指導はないんですね。
 三月にまた一人、同じ学校で自殺したんです。学校があわてて調査したら、いじめじゃなかった。学校はホッと胸をなでおろした、と新聞記事に書いてありました。自殺の原因は受験に失敗したことだったらしいと。僕は同じ問題だと思っています。友だちの死よりも受験が大切だと思っている学校で、受験に失敗したらそれは死ぬしかないって空気を感じるでしょう。そういうなかでは、多分いじめているとかいじめていないとかいうことは、親にも学校の先生にも見えない。子どもたちがどんな気持ちで学校に行っているのか、それを見ようとする目を僕らがもたなくてはなりません。

 僕にも経験があります。うちの子が不登校をはじめて、学校に相談に行きました。子どもたちの様子は、僕らにはそう簡単に見てわからない。だから、「いじめている子は、首謀者をはじめ誰と誰だかわかっている。だけどその子を責めないでほしい、特定しないでほしい。決して仲直りさせないでほしい」と。先生は少し戸惑いましたが、よくわかってくれました。いじめがあると、最後は「いじめちゃいけない」とか言って、仲直りだ、握手だと、そこで収めて帰りますけど、それで満足しているのはおとなです。仲の悪い者どうしを仲良くさせようとすること自体に無理があります。子どもにとって、かなり大きなプレッシャーです。だから「仲の悪い友だちがいるんなら、無理してまで付き合わない。その代わり、わざわざつばを吐いたり、そういうことをするな」と、おとなの付き合い方を教えてやらなければ。彼らは、人間の付き合い方にとっても下手になっているんです。

 不登校というのは、かつて長期欠席児童といわれていて、戦後昭和三〇年代ころは経済的理由によるものでした。その後、高度経済成長により長期欠席児童が少なくなったのは、一九六五年~七〇年(昭和四〇年~四五年)です。そのころから、「今の日本の教育はおかしい」と言われ始めました。一番の問題は、受験戦争の激化だろうと言われています。七〇年代後半から、学校に行かない子どもたちが出てきます。だんだん数が増えて、登校拒否ではなく不登校に。今は不登校がいるということがあたりまえになってます。学校に合わないということを、子ども自身が言うようになってきた。おそらく学校がもっているいろいろな体質が、ここにきて苦しくなってきている。
 「昔はよかった」という人がいますが、昔、学校は自分の生活のほんの一部分だったんです。学校でいやなことがあっても、帰れば全然違う世界がありました。建物自体も萱葺きで、どんどん風が入っていた。組織的な意味でもそうでした。昔の親は、みんな「適当にやったら適当に育った」と言います。
 昔の親に比べたら、今の親はしっかりしています。子どもをちゃんと見ているわけです。今の子どもは、時間監視されているような状態にあって、“逃げ場”がないんです。いたずらも悪さもできません。息が詰まって、隠れて悪さやいじめをするか、コンピュータに向かってネットで意地悪するしかできなくなっています。追い詰められているんですね。  歌手の井上陽水が主題歌を歌っている『少年時代』(原作:藤子不二雄A)という映画があります。藤子不二雄が自分自身をモデルにした戦争中の疎開の話で、都会から来たといっていじめられます。あの時代、軍国時代で社会的に逃げ場がないような状態であっても、子どもは逃げ場所を見つけていたんです。

 高校の未履修問題。学校教育の目的は、普通教育をちゃんとして「人格の完成をめざす」ことです。世界の歴史はこのようにして動いている、だから今の世の中こうなっている。外国に行きその国の歴史物の映画を見たり、NHKの大河ドラマを楽しく見る。そういう教養を与えておくのが学校教育です。それが我々生きていくうえでの大切な知恵なんですね。数学も物理もそうです。この世の中の仕組みや面白さを知っていくことをどう与えるのか、というのが学校での教育です。それを子どもたちはおもしろいと思って、自分で勉強する。そこから学力は付いてくるんです。
 ところが、受験に通すんだと変わった瞬間から、教え方が変わって、子どもは意味がわからずにその解法だけを覚えていくわけです。そうするとなかなか学力が付かない。仕方がないから0時限目があって、補習をして教えていく。このように全部教えていくと、子どもは自分で勉強しなくなるんです。勉強しなくなるから、大学では学力が落ちます。受験の学力は、あれだけ勉強しても身に付かないんです。僕はたまたま違う大学を出たから、九州大学に来るチャンスがあった。ここの大学を出ていたら、多分ここにはいなかったでしょう。大学の仕組みはそうなっているんです。全部運です。その運の時に、自分の努力で何とかできる、というのが大切です。
 高校の世界史が必須になったのは、理念として、これからは世界の歴史という教養をもった国際人になってほしいと、学習指導要領を文部省がつくったんです。受験のために日本史を勉強するというのは、子ども自身の問題で、親の問題でも学校の問題でもないんです。それを学校がルールを侵してまでやってしまった。教育を放棄して、子どもに学ぶ力を与えていないのは、とても責任があります。

 病気にはいろいろあります。生活習慣病は、僕らが長年不摂生してきたことが、ここに現れているんです。そういう病気は、社会制度(制度疲労)のなかにもあるんです。学校も社会も、一度大病を患って大手術をしているんです。戦争に負けて、その後に大改革をしているんです。ところが、まだ残っている部分や、治りきっていない部分があって、それがだんだんと現れてきている可能性があるんですね。それと、学校をとりまいている環境も変わってきている。我々は、学校と家庭の体質改善をしなくちゃならないでしょう。

 学校で勉強するのは、つまんないし、役に立たないのはどうしてだろうか。「おもしろいよ」という子はそれでOKです。さっきも言ったように、なぜ本当の楽しさを与えてもらってないのか、単純に学校の先生の責任というわけではありません。今の学校ができる前、寺子屋では、お百姓や商人の勉強、お嫁さんの作法など、勉強したいことがあると学校に行って、そのことだけを学んでいました。先生は一日七〇人くらいの生徒一人ひとりに教えてあげるんです。共通しているのは読み書きをするってことですね。
 ところが、今の学校の制度は明治の初めにできましたが、国が必要とする国民をつくるために、学校をつくったんですね。だから、国が何を教えるかを決めるんです。そこに集まったいろいろな子どもの要求があるから、誰にとっても必要なようで、誰にとっても必要のないような内容になる。これが今の学校のカリキュラムの成り立ちです。それがダメだというわけではなく、だからつまらなくなりやすいし、役に立ちそうもない。だけども、新聞を読んで事情がわかるような知識や、世界の現象を見てわかるような知恵がそこにはあります。
 もうひとつは、明治十八年に内閣制度ができて、初代文部大臣の森有礼(もり・ありのり)が、富国強兵のもと、臣民(天皇の家来である民)形成のために、純良・親愛・威重(平たく言うと、上には媚びへつらえ、お互いに傷をなめ合い、子どもには威張り散らせ)と、師範学校の制度を変えます。軍隊のように一つの目標に向かっていく縦系列の組織を考えたんです。金ボタンとカラー襟のある学生服は、当時の陸軍士官学校の軍服そのものです。
 体罰についても、日本は世界でも有数に、初期の段階から(明治十二年)法律で禁止していました。これはヨーロッパよりもずっと先なんです。それにもかかわらず、これが入ってきたおかげで、法律の建前と現実が違ってきます。

 学校がなかったころ、子どもたちは村の中で育っていました。「七歳までは神のうち」と、子どもは天からの授かり物でした。六歳くらいになると、言っていることがわかるようになり、病気もしなくなって、社会の一員として仕事(子守り)をするようになります。おとなと子どもは、同じ仲間として仕事を覚えていきました。そして、十二歳~十五歳くらいになると、一人前になります。
 民俗学者の柳田國男は、そのころの子育てを「すこしづつ追い立てていってやらっていく」、「こやらい」と言っています。彼が生きていた時代、明治に新しく始まった学校教育は、無理やり牛を水のみ場に連れて行くような教育をしている、と批判しています。すでに、日本の学校教育の間違いは明治時代から始まっていたんですね。

 かつては、中学生になるくらいが身体も心も一人前だった。同じ生物ですから今でも変わりません。ところが、無菌状態でおとなにしないような教育をしています。中学校になるとますますそうです。それが中学の荒れにもつながります。子どもは親の背を見て育ちます。おとながおとなとして生きているのを見守っています。さらに子どもは、親の背を乗り越えて育つものです。
 基本的に、子どもが自分のことを自分でできるように、自分の人生は自分で切り拓くことができるように、生まれた時から少しずつ、手をかけないようにしていく努力を、親も学校もしていかなくちゃいけない。中学校になっても子どもがいるという認識だと、子どもはいつまでも伸びません。
 また、子どもが親の背中を乗り越えようとする時には、ちょっとかがんで乗り越えさせて、自信をつけさせることはとても大切だと思います。

 「子どもの権利条約」の趣旨は、子どもは常に一人のおとなと同じだけの権利をもっているというものです。国際条約は法律よりも優先します。何かするときには「子どもの権利とは何か」と常に考えながら、「何のためにやるのか」「誰のためにやるのか」ということを物差しにしてほしい。
 「教育基本法改正」の大きな問題点は、教育が一人ひとりの個人のために行われているものから、“国家の国民”という意識に変えられようとしていることです。学校の先生が、全体の奉仕者という位置づけから、国家の一員として国の教育の先端部分という位置づけになります。一〇条は、「国がこうだから学校で戦争に行け」と教えた経験から、子ども一人ひとりの幸せのために教育をするべきだ、といって国家から独立させた法律です。改正案は行政の中の一つに教育を入れようとしている。私たちの子どもの教育でなくなるということです。よく読んでほしいです。

posted by 河東真也 at 15:41| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

学校はただしい

 昨年の11月に某小学校PTAと家庭教育学級に呼ばれて「地域・学校・家庭で豊かな子育てを~子どものむかし・いま・あした」と題して講演をしにいった。会場は生涯学習センターで、PTA会員が51名、地域15名、他校15名の81名というなかなかの盛況であった。評判は結構よかったのではないか、と思っている。まもなく委員の方からメールが来て講演の概要をPTA新聞に載せるので、校正をしてくれとファイルを送ってきた。レイアウトもかわいらしくしてあるものであり、そのまま印刷すれば新聞になってしまうところまで完成されたものだった。文章も僕の話の趣旨を要領よくまとめてあって、実に感心した。それで少しばかり赤を入れて返送し、できあがるのを楽しみにしていた。せこい話であるが、今年の著作物にそっと入れようと考えていたのだ。
 ところがそのまま音沙汰がはなく、僕もいつのまにか忘れていたのだが、先般、そのときの委員の方から連絡があった。なんと僕の講演をまとめた文章はPTA新聞に掲載されなかったのだそうです。どうしてかって?学校側が載せるなと掲載を差し止めたのだそうです。つまり検閲なんだな。検閲については日本国憲法に次のように書いてある。
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
 これだ。なんと、学校は日本国憲法を平然と犯して僕と成人教育委員会の表現の自由を侵害したということになる。もうじき変わってしまうからどうでもいいものと考えていたのかと自民党の新憲法草案をみたら「検閲は、してはならない(第21条2)」とあった。憲法が変わっても検閲はいけないことなのだ。しかし、学校では何の疑念も持たずに検閲が行われている。どうしてだろうか。
 昨年通信簿について書いたときに「学校と家庭の連絡を密にして子どもの教育の効果を上げる」ことが目的の一つだったと説明したと思う。学校と家庭との連絡を密にすることは日本の学校にとって重要なことだった。手元に教育学術研究会編纂『小学校事彙』という書物がある。明治37年の刊行で厚さが7㎝ばかりある。その中の「学校と家庭」という章を読んでみるとその当時の学校と家庭の関係がよくわかる。まずは学校と家庭の連絡は絶対に必要だと述べられ、さらに「学校は其の教授の点に於て、家庭よりも多量の事業を為すに反し、独り訓練上に於ては、学校に於ける仕事は、到底家庭に於て与ふる勢力に及ばざるや遙かに遠しと云ふも、決して妄言にあらざるべし」とある。つまり、教科教育は学校が家庭よりも影響力があるが、訓練(人間形成)については学校の影響力は圧倒的に家庭のそれには及ばない、と現状を把握している。だから、「訓練に関して、両者相一致し、相提携し、方針を一にし、方向を共にし、能く児童の特性身分境遇に応じて適切なる訓練を加へざるべからず」(人間形成に関しては学校と家庭の方針を一致させ、子どもの家庭の事情をふまえて適切な訓練をしなくてはいけない)と書いてある。要は学校の人間形成の方針を各家庭に守らせるために連絡が必要なのだということだ。通信簿はそのために始まったものだが、それだけではなくさまざまな方法が使われている。
 たとえば埼玉県の川越高等小学校では、「家庭心得」なる文書の中に学校と家庭の連絡について記述があり、通信簿、父兄会、学校参観、儀式への臨席などをあげ、「学校ノ申付ハ何事ニ限ラズ必ズ践ミ行ハスル様注意サレ」(子どもには学校の言うことを必ず守るようにしつけろ)と学校の絶対的な正当性を強調していた。
 ここに出てくる父兄会というのは懇話会とか懇談会という場合もあり、年に何度か父兄を招集して懇談するものであり、授業参観や学芸会、理化学の実験と抱き合わせにすることが多かった。これは学校の教育のありがたさを無知な父兄に知らしむるものであって、もちろん保護者の評価を求めるものではない。また、「児童保護者の心得」「家庭心得」というものが示され、学校から家庭に対しての指導が行われていたのだ。常に学校は正しいのだということを親によくよくわからせることがねらいだった。
 ということは学校の方針にとって好ましくない考え方は許されるものではなかったし、学校と意見のちがう親なんてあり得なかったのだ。学校が憲法すら無視し、超法規的に検閲をしているのは、そうした学校の絶対的正当性という幻想に未だにすがっていることのあらわれなのだろう。学校と意見のちがう親なんて今でも認めたくないのだ。
 

posted by 河東真也 at 15:29| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

戦後教育と不作為の罪

 2006年末に教育基本法「改正」案が可決して戦後教育体制は大きく変わったことは承知してるだろうね。何も変わらないさ、なんて今までみたいに能天気にかまえているととんでもないことになる。例えば『心のノート』なんていうのがじわじわっと使わせられようとしているけど、使わないでいられるのも教育に対する不当な支配を教育基本法が禁止していたからだ。『心のノート』は事実上の国定教科書だと言われてきたが、これからは国定教科書にだってなりかねない。
 ところで、学校では『学習指導要領』に基づいて…、「教科書」を使って…、授業をしているだろう。だから『学習指導要領』が変わるたびに現場は大騒ぎをすることになる。総合的な学習にしても、ゆとり教育にしても学習指導要領の改定によって現場にもたらされたことがらなのだ。しかし、これらのことは教育現場が行政に支配されているといってもいいものではないか。
 『学習指導要領』にしても検定教科書にしても、教育がかつての戦争をささえ、国民を戦争に駆り立てていったことに対する痛悔の念から生まれたものだ。二度と同じ過ちは繰り返さないために教育を国民の権利として位置づけなおしたのが教育基本法であったし、戦後教育だったのだ。GHQは1945年にいわゆる四大指令というのを出して占領政策をはじめたが、その四番目はこの年の大晦日に出された「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」である。軍国主義的ないし過激な国家主義的イデオロギーがこれらの教科書を通じて子どもたちに教え込まれてきたとして、これらの教科書の回収と授業の停止を求めたものだった。ここから戦後の教育の立て直しが始まるのだが、他の教科書についても墨が塗られたことはよく知られていると思う。軍国主義から民主主義への転換にはいったん新たな権力の手でおこなわれたのだ。だから復活した教科書はGHQの認めた国定教科書だった。
 しかし、このままでは今まで通り国家のいいなりになってしまい、民主主義どころかちがった権威主義になってしまう。そこで『学習指導要領』なるものを文部省は作成したのだ。新学制発足直前の1947年3月に『学習指導要領』が発行された。これらには(試案)と銘打たれている。そして『一般編』の序論には戦後日本の教育はこれまでとはちがい、「こんどはむしろ下の方からみんなの力で,いろいろと,作りあげて行くようになって来たということである」と宣言し、「今後完全なものをつくるために,続々と意見を寄せられて,その完成に協力されることを切に望むものである」と現場の教師たちの手で作り上げていくようにという考えを示していた。
 この『学習指導要領』に基づいて新しい教科書を作ることになったのだが、当然それは教師たちが自由に執筆・編集していくものであった。ところが、そこに問題があった。戦後という時代である。物資は欠乏し、国民は食う物にも事欠いていたことは当時を生き抜いた人たちから伝え聞いているだろう。当然のことながら教科書にするための紙じたいがめっちゃ不足していたのだ。自由発行にすれば、紙をめぐって熾烈な競争となるし、当然価格にも影響を与える(なにしろ教科書は有料であった)。それで教科書の発行に関する臨時措置法という法律をつくって教科書発行を円滑にしようとしたのである。この法律の第1条には「この法律は、現在の経済事情にかんがみ、教科書の需要供給の調整をはかり、発行を迅速確実にし、適正な価格を維持して、学校教育の目的達成を容易ならしめることを目的とする」と記されている。教科書は自由発行されるべきものであるが、当時の経済事情を背景に検定という措置がとられたのである。だから経済事情が好転すれば教科書は教育現場の声を反映したものを自由に発行できるはずだったのだ。そろそろいいだろうとは思うのだが、この法律、改定を重ねながら未だに生きている。まだ「現在の経済事情」とやらに縛られているのだそうだ。
 誰が縛っているかって?自分たちで『学習指導要領』を作らなかった人々であり、自分たちで教科書を作ろうとしなかった人々である。権力にお任せした結果、『学習指導要領』は法的拘束力を持つようになり、教科書は検定のままなのだ。こういうのを不作為の罪という。深く反省しなくちゃ。


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なぜ中学生は煙草を吸ってはいけないの

 中学校や高校では生徒の喫煙というのは深刻な生徒指導の課題だろうと思う。なにしろ喫煙は非行の始まり。取り締まらなければならないもの、とまずは決まっている。しかし、「なぜ煙草を吸ってはいけないのか」と生徒に質問されたら、何て答えればいいのだろうか。「煙草は健康に悪い」と言えば中年の教員のほうが健康面では心配である。「おめえがやめれば…」と冷たく逆襲されるだろう。「煙草は身体の成長を妨げる」何て言ったところで、見上げるように背の伸びた生徒に対する説得力は持たない。
 煙草は非行のサインではあるが、そのサインを消したからといって非行がおさまるわけではない。じゃあ生徒に何と説明すればいいのだ。……答えは一つ。
 「法律で決まっているからだ!」
ということだ。しかし、法律で決まっているからダメだというのでは説得力に乏しいことも否定できない。で、この法律、すなわち未成年者喫煙禁止法(明治33(1900)年3月7日制定、4月1日施行)ができた背景を振り返ってみよう。
 もとより日本の伝統社会では煙草のような嗜好品は「一人前」の者にのみ認められることであった。「一人前」というのは武士でいえば元服、およそ一通りの労働ができるようになった人間をいう。だいたい12~15歳くらいであったと考えていい。今でいえば中学生くらいだな。そのくらいの年になれば煙草を吸うのはあたりまえ、というのが社会的な慣行だったのだ。
 ところが明治20年代になって、例えば生徒による校長排斥運動のような学校紛擾(ふんじょう)が頻発するようになると様子が変わってきた。おとなたちの眼から見て生徒たちの叛乱は学校の風紀の頽廃というふうに位置づけられ、それが社会問題化するようになったのだ。そして学校の生徒の喫煙を禁止しようという風潮が出てきた。つまり、「学校の生徒はまだ勉強中の身で一人前ではないから煙草を吸うなんて生意気だ!」ということなのだ。だから文部省は省令で学校の生徒の喫煙を禁止しようとした。しかし、省令では学校内の生徒に喫煙を禁止することはできても、学校の外に出てしまえば取り締まることはできない。それで貴族院では「青年一般を対象にしないと学校生徒の喫煙は取り締まれないじゃねえか」という意見が出て、未成年者喫煙禁止法が成立したのである。つまり、学校の論理が青年一般(世間一般)に広げられたのである。ちなみにこの当時の中等レベルの生徒は同年代の数パーセントに過ぎない圧倒的に少数派であった。その少数派を取り締まるためにすべての青年を対象にした法律を作ったのである。
 もちろん反対運動もあった。明治33年1月28日の大阪朝日新聞には祇園新地の芸娼妓の中から反対を唱えるものが出てきたと記されている。「烟草は我々の最大機関にして、烟管の雨が降ると烟脂下がりし助六の昔より、吸いつけ烟草の愛嬌に客を吸い込むは言うまでもなく、茶、酒の合間の手捌きもよく、また後朝のちょっと一ぷくに、一縷の烟後髪をひくの能ありて、寸時も欠くべからざるものなるに、一朝これを禁止せられては、未成年者の芸娼妓はさらでだに座敷を持ちかねて、ややもすれば酸漿ぶうぶうの無愛想をなす物れば、…」という具合であった(文意の解説はしないのでそれぞれで解釈してほしい)。
 つまり、一方で未成年の労働者が煙草というツールを必要とする職種も存在したということだ。そしてこうした業界を必要とする人たちの手でこの法律は議会を通過した。ということはこの法律が実効性を持つのは学校の生徒に対してだけだ、ということがはじめから決まっていたのであり、社会一般には実質的な有効性を持たないザル法になるということが想定されていたのだ。今でもこの法律にもとづく〈指導〉は中学生、高校生に力点が置かれているのはそういう歴史があるからである。
 ところで、対象を学生生徒に絞った法律がある。自転車競技法、モーターボート競走法、小型自動車競走法などのギャンブルに関する法律では「学生生徒及び未成年者は、車券(勝舟投票券、勝車投票券)を購入し、又は譲り受けてはならない。」とそれぞれの法律で学生生徒の購入は禁止されている。但し、公営ギャンブルの元祖である競馬については2004年の改正で学生生徒の文言は削除された。理由は学生生徒というのは憲法第14条における社会的身分に相当するからだという。
posted by 河東真也 at 15:20| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

通信簿の楽しみ

 いよいよ夏休みだなあ。しかし、センセイ方はその前に通信簿(通信表、通知表、通知簿とかなんとか)をつけなければならないのが大変みたいですね。でも、通信簿っていうのは別に作らなくてもいいんだな。だって特に法的なきまりは何もないんだから。にもかかわらず通信簿は深く日本の教育とかかわってきた。何しろ学校の思い出といえば通信簿だもの。
 この通信簿、いったい何のためにあるんだろうか。1891(明治24)年の小学校教則大綱に対する文部省説明の中に「各児童ノ心性、行為、言語、習慣、偏僻等ヲ記載シ道徳訓練上ノ参考ニ供シ之ニ加フルニ学校ト家庭ト気脈ヲ通スルノ方法ヲ設ケ相提携シテ児童教育ノ功ヲ奏センコトヲ望ム」(心性、行為、言語、習慣、偏僻等なんかを書いて道徳訓練の参考にすることと、学校と家庭の連絡を密にして子どもの教育の効果を上げることを期待する」って書いてあり、その方法のひとつが通信簿だったと考えてよい。
 当初は連絡帳みたいなものだったけれど、1900(明治33)年の小学校令施行規則で校長の作成する学籍簿の形式が具体的に示された。つまり、子どもの学業成績、出欠、身体状況などを学籍簿という公簿に記録することが制度としてできあがったのである。そのデータを使って通信簿を作って子どもに配付するということが一般化したということだ。なんちゅうことはない、学籍簿などの公簿の制度が確立したから調子にのってその権威性を子どもや保護者に見せつけようとして始めたのが通信簿なのだ。通信簿に法的根拠がないというのは、もともと表に出すべきではない学籍簿の中身を外に出すことだからだ。それとそういう秘密の資料(学籍簿)に基づいた通信簿だから権威があるように見える。それをちらつかせることで子どもと親を管理していくというのも通信簿の役割だったのだ。
 たまたま明治36年度の柳河男子高等小学校の通信簿である「児童成蹟通告表」というのが手元にある。僕が古本屋で買ったものだ。これは一枚の用紙を二つ折りにした4頁のものだ。この「児童成蹟通告表」を開くと右側には小さなデータ記入欄として、出欠日数、出身尋常小学校長と保護者の押印欄、身体検査表の欄が並んでいる。成績は各学期ごと及び学年の終わりに記入するようになっており、成績の標語は甲乙丙丁で書き込んである。この成績はチョー絶対評価である。教師がいいと思ったらためらわずに「甲」と書くようだ。だから成績の分布はまったく一定していない。今は評価にはかなり神経質になってるみたいで、基準やら規準やらを斟酌して数字をいろいろ操作しているようだが、この頃は何とおおらかなことか。まあ親にとっても子どもにとってもよければ「甲」、悪けりゃ「丙」というのはすごくわかりやすかったんじゃないかな。と、同時に教師のお眼鏡にかなうか否かが評価に結びつくものでもあり、教師の権威は否が応でも高くなったのだ。ああ教師にとってはいい時代だったねぇ。

 ところで、これまで『羅針盤』に連載していたものが本になった。もちろんだいぶ加筆修正している。自分で書いたものだけれど読んでみるとめっちゃおもしろい。

『学校は軍隊に似ている―学校文化史のささやき』(社)福岡県人権研究所発行、海鳥社販売、で1200円+税だ。店頭になくても本屋さんに注文すると買えるので、よろしく。クラス単位でまとめ買いするというのなら、著者の独断で割引も考えようじゃないか。
posted by 河東真也 at 15:18| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

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