2005年10月20日

受験準備は卒業の後で

 地球温暖化とやらで夏はだんだん暑くなってくる気がしませんか。あちこちで二学期制がブームだけど、暑くて長い夏休みを過ごしたあとでまた前学期に戻るって子どもの感覚から見れば四学期制になったみたいなもんだよね。えーと、学年が四月に始まるいわゆる四月始期という学年暦の区分が一八八六(明治一九)年に高等師範学校から始まったことは前に書いた。これは優秀な人材を軍隊に採られる前におさえちゃおう、という青田刈りの発想だった。この四月始期は夏休みを区切りとすることで三学期制とも比較的なじみやすかった。もっとも僕自身の意見としては一年間で一番長い休みの期間を学年の途中に持ってくるよりは、学年の終期と始期の間に持ってくる方がいいと思うのだけれど、まあ、馴れ親しんだことだから言ってもしょうがないわな。
 小学校については一八九二(明治二五)年から全国的に四月始期になり、中学校についてもこの頃に四月始期に移行しているところが多い。但し、中学校については学校別に始期を定めていたので妙なことになる。例えば佐賀県尋常中学校は一八八九年に定めた規則に従い、一八九一年から四月始期となったのだけれど、一八九二年に創設された宮城県尋常中学校は設立当初から四月始期を採用していたというように、全国的に四月始期への移行はまちまちであった。しかも同じ福岡県であっても一八九四(明治二七)年に尋常中学校伝習館、豊津尋常中学校、久留米尋常中学明善校がそれぞれ規則を定めて四月始期を実施したのに、尋常中学修猷館は一八九五年から四月始期制を実施するというように同じ県内でも足並みはそろっていなかったというのも今なら信じられないおおらかな話だろう。
 まあ、伝習館、豊津、明善、修猷館というくらいしか福岡県には中学校はなく(これでも全国的には多い方であった)、小学校だけで終わる子どもたちがほとんどだったので多少の入学時期のずれは気にならなかったのかもしれない。
 ところで久米正雄の短編に「受験生の手記」というのがある。一九一八(大正七)年の作品で、当時の受験模様がリアルに描かれている。主人公は一高(第一高等学校=現在の東京大学教養学部の前身)の受験に失敗して一浪している青年である。しかも彼の弟もまたこの年に中学を卒業して高等学校を受験することになっていた。ちなみにこの頃の高等学校というのはすべて官立(=国立)で、第一高等学校から第八高等学校までの八校しかなく、高等学校を卒業すると帝国大学(東京、京都、九州、東北)のどこかに必ず入れるようになっていたのだ。その意味では庶民にはほど遠い存在でもあったが、いったん成功すれば立身出世がかなう場所でもあった。
 で、主人公の青年は前年の失敗の理由をかく分析している。

…卒業後の大切な数月を刺戟のない田舎で勉強しようとしたのが間違だつた。早くから上京してゐて、切迫した空気の中にゐたら、或ひは勉強ももつと緊張し、又受験術も巧妙になつてゐたかも知れない。

 四月になると中学を卒業した弟が上京して来てともに受験勉強にいそしむが、彼は再び失敗し、弟は合格とともに彼の恋まで奪ってしまい、青年は自殺をする、という話だ。この話で気づいたと思うが、中学の卒業が三月、高等学校の入試は七月なのである。小学校や中学校が四月始まりになってからも、高等学校と帝国大学は一貫して九月始期を堅持していたのである。高等学校と帝国大学が四月始期を採用するのはなんと一八一九(大正八)年からであった。ほぼ四半世紀の間中学校を卒業する時期と高等学校の入学の時期との間に三ヶ月余の時間差があったのである。現在は高校や大学の入試が中学校や高等学校の通常の学期に食い込み、三学期はまったく授業なんかはできなくなっている。まっとうな人は中学校や高等学校の授業が歪められるというし、ある人は教員としての本務を抛ち受験代行業みたいな雑務に三学期を埋没しているようだ。もしかつてのように始期がずれていれば、中学校も高等学校もきちんと三学期まで通常の授業ができる。受験勉強は卒業してからすればいいのだから。そうなると授業のできないセンセはすぐにばれるか。

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はじめは二学期制だったけど…

 福岡市同和教育研究会の会長を努めていた松澤善裕さんという人は古いものを集めるのが趣味でして、時として教育関係の古文書なんかを見せびらかしてくれた。日本教育史を生業としている(よく覚えておいて!)僕としてはたいへんうれしいのだ。あるとき見せていただいたのは小学校の卒業証書であった。ちょいと紹介しよう。まず、「福岡県平民」と族籍入りなのだ。(「同和教育をやっているのにそんなものを紹介するのは赦せん!」などと怒らないこと、何しろ昔の話なんだから。)で、「何野某助」と名前があり(さすがに松澤さんは実名は挙げないようにと忠告してくれたので仮名。)、その左に「八年四月」とある。つまり八歳四ヶ月ということだ。本文は「下等小学第八級卒業候事」とまんなかに書かれ、「第五大学区福岡県管内 第三十三中学区鞍手郡 稲光小学」と学校名が記されている。問題は日付が「明治九年十一月」となっていることである。
 この人物の卒業証書はまだ他にあった。並べてみると七級卒業が明治一〇年一一月、六級卒業が一一年四月、五級卒業が一一年一一月、四級卒業が一二年四月となっている。こうやって並べてみると何か気づくだろう。そう、各級ごとに卒業という言葉が使われており、その卒業の時期が一一月と四月という中途半端な時期だということである。
 文部省の「小学教則」によればこのころの小学校は下等小学と上等小学に分かれ、それぞれ四年ずつの課程になっている。下等小学は全部で八級からなり、六ヶ月で進級することとし、進級は試験によって認定されるという仕組みだった。そう、日本の学校教育ははじめから(学期という言い方はしないけど)半年単位で進級する二学期制だったのだ。この小学校で一一月と四月に各級の卒業試験をして進級を決めていたというのはそういう仕組みを示している。しかし、それにしても中途半端な時期ではないか。
 で、もう一つの卒業証書を見てみよう。今度は「福岡県貫属士族」とあり、「誰田誰也」(仮名)と名前が書いてある。年齢は「当九月九歳九月」とあって九月時点で九歳九ヶ月であった。同じく「下等小学第八級卒業候事」と書かれているが、発行は「第五大学区福岡県管内 第三十四中学区夜須郡下秋月村 秋月小学」となっていて、日付は「明治七年九月」となっている。おやおやこんどは九月卒業と鞍手郡とは時期がちがう。どうしてかというと、明治九年に決められた旧福岡県(まだ廃藩置県の途中で、現在の福岡県は小倉県、福岡県、三潴県の三県に分かれていたのだ)の小学試験規則では上期試験を三月か四月に、下期試験を九月か一〇月にするように定められていたので鞍手郡と夜須郡では半期の区切り方にズレがあったというわけなのだ。
 ところが小倉県では一月一一日から七月一五日までと八月一五日から一二月二六日までが開校期間となっていて、福岡県とはかなりのズレがあった。また、小学校ではないけど、明治一一年に設置された福岡師範学校附属変則中学では二月と七月が定期試験の月とされ、この試験で進級が決まるとなっていたから、二月と七月に入学や進級や卒業の行事が行われていたと考えられる。
 このことからわかるようにこのころはまだ何月からはじまるということの全国的に統一された規則はなかったんだな。このように学校によって暦がちがうのは転校するということが考えられていなかったこと、小学校での学習が上級学校への進学とまったく結びついていなかったことを示している。横並びという発想がなかったのだ。学校の常識が今とはまったくちがっていたんだな。いったい誰が今の学校の横並びという常識をつくったんだろうね。


     


posted by 河東真也 at 12:25| 福岡 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

二学期制のその前に

 このところ二学期制を始める学校もあるけど、困ったのが二つの長い休みだ。そう、夏休みと冬休み。これがせっかくの学期の真ん中に来て緊張感を断ち切ってしまう。冬休みはクリスマスと正月という国民的(!)行事だから、まあ何とか許せるとして、夏休みは一ヶ月以上もあるからどうしたって前学期はだれてしまうんじゃないかな。
 実は大学はずっと二学期制をとっている。前学期は四月から九月まで後学期は十月から三月までとなっているのだが、前学期は夏休みのあけた九月に一回授業をしてから試験期間に入っていた。つまり最後の講義というのは長い休みのあとの最後の講義というのは何とも気の抜けたものになってしまう。夏休みの間に学生はそれまで講義した内容をすっかり忘れてしまうから最後の回に「前回話したあの件は…」なんて言っても話はつながりはしない。結局、講義時間数は帳尻をあわせても事実上意味のない時間つぶしに終わってしまった。最近になって、9月分の講義と試験を夏休み前に前倒しにして前学期を終わらせてしまうようになったのだが、前学期の最後は真夏日の中で過ごすことになる。低燃費のエアコンが完備してきたので可能になったことである。
 だいたい夏休みというのは日本の習慣にはなかった。これを持ち込んだのは東京大学の前身である東京開成学校に雇われていた外国人教師たちの習慣によるものであったと思われる。1875(明治8)年の同校の規則に「九月十一日ヨリ七月十日ニ至ル之ヲ学歳トス 之ヲ分チテ二学期トス 第一学期ハ九月十一日ヨリ翌年二月十五日ニ至リ第二学期ハ二月十六日ヨリ七月十日ニ至ル」と定められたのがおそらく最初の規定だろう。つまり、学年の始期が九月であるから夏休みが学年の終わりに来ていることがわかるだろう。一年間たっぷり勉強したあと二ヶ月の休養をとれるわけだ。教師たちもゆっくりバカンスを楽しむというわけだ。つまり夏休みは九月学年始期と相性がいい制度だったのだ。
 ところで私たちが慣れ親しんできた三学期制は4月始期制と深くかかわっている。四月始期制は一八八六(明治一三)年に高等師範学校が始めたことであった。佐藤秀夫氏によれば第一に徴兵令の改正によって壮丁の届出が九月から四月に変わったことによる。どういうことかというと陸軍にとられる前に優秀な人材を高等師範学校に確保するための策略であったという。第二の理由はやはりこの年に国の会計年度が七月から始まるものだったのが現在の四月からに変わったことによる。そのほうが便利だという役人の都合によるものであった。とは言え同じ文部省管轄の帝国大学は九月始期を続けるので文部官僚が強気に出られるところに押しつけたということなのだろう。
 小学校の始期については特に全国統一の時期は決められてはいなかった。福岡県ではこのころは九月始期であったが、佐賀県では明治二一年から四月始期とするよう達しがあったという。
 全国の小学校に4月始期制度が適用されたのは明治25年からであるが、法制化されたのは一九〇〇(明治三三)年の小学校令施行規則による。実際には四月始期が定着するのにはそのくらいまでかかったということらしい。今思う以上にのんびりしていたということだな。四月始期が定着してくると夏休みがじゃまをして授業期間を夏休みで区切るのが都合よくなる。そういうことで夏休みと冬休みをうまく使った学期の区分がやりやすい、ということで三学期制が普及したということなのだ。
 要は三学期制は四月始期制の所産であり、二学期制は九月始期制にぴったりの制度だったということだ。今さら言っても遅いけどね。

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2005年10月17日

石盤に込めた夢

 二〇〇五年は年は不幸を背負って始まった。そう、TSUNAMIだ。そのニュースを僕はカルカッタ(コルカタ)の安宿で知った。最初は4年前に行った南インドも候補地として考えていたのだけど、諸般の事情でインド横断に変更したのだ。もし南インドに向かっていたらこの原稿を書いていたかどうかはわからない。なにしろ前回行った町は軒並み壊滅してしまったらしいのだ。あの時出会った子どもたちがどうなったか。想像するだけで気が重くなる。
 ともかく津波とは無縁に僕たちは西へと旅を続けることにした。ブッダ・ガヤというブッダが悟りを開いた聖地がある。ここで「驢馬車に乗ってスジャータの村に行かないか」と誘われた。かつてスジャータという女性が乳粥供養をしたというところだ。驢馬車に乗りたくて行ってみることにした。実はこの村はそういう宗教的いわくのある土地であるにもかかわらず非常に貧しい村なのだ。着いてみるとそこに小さな小屋があって子どもたちが勉強していた。そこは学校だったのである。学校といってもボランティアでやっているフリースクールなのだと言う。school.jpg.jpg

子どもたちは着の身着のまま。教科書もなければ机も黒板もない。でも子どもたちは実に楽しそうに学んでいた。学ぶ熱意が全員のからだからあふれているのだ(写真1)。こういう熱気って僕たちは疾うに忘れてしまったのではないか。学ぶっていうのは競争して点数を上げることではなくて、学ぶことそのものの中に喜びがあるのだということをイヤと言うほど知らされてしまった。そこの教師の話ではノートも筆記具も不足しているという。僕は旅行メモ用の一本を残してすべてのボールペンを渡してしまった。
sekiban1.jpg.jpg そしてふと見ると子どもがあるものを使って勉強していた。石盤である(写真2)。『広辞苑』を引用して説明すると「粘版岩の薄板に木製の枠をつけ、石筆で文字・絵などを書くようにしたもの。布で拭くと消える」というものだ。石盤はヨーロッパでは18世紀末から使われていたが、日本では近代学校制度の成立の頃に黒板とともに導入された。明治5(1872)年に作られた「小学教則」の綴字(カナヅカヒ)の教授法が次のように記されている。

 生徒残ラス順列ニ並ハセ智恵ノ糸口うひまなび絵入智恵ノ環一ノ巻等ヲ以テ教師盤上ニ書シテ之ヲ授ク前日授ケシ分ハ一人ノ生徒ヲシテ他生ノ見エサルヤウ盤上ニ記サシメ他生ハ各石板ニ記シ畢テ盤上ト照シ盤上誤謬アラハ他生ノ内ヲシテ正サシム

 文中に出てくる「智恵ノ糸口」「うひまなび」「絵入智恵ノ環一ノ巻」は当時教科用図書として使われていた本の名前。そして「盤上」は教師用の石盤かな、「石板」は石盤のことである。この史料から明治初期の授業のやり方を想像してほしい。
 石盤はけっこう長いあいだ使われていた。ノートや鉛筆が普及したのは第一次世界大戦後のことであり、昭和初期くらいまでは石盤は書取りや計算を繰り返し練習できる重宝な文具であった。その日本では歴史的な文具が今もインドでは使われていたのである。ちょっと驚きであったが、ノートや筆記用具がなかなか手に入らないインドでは現役だったのである。この石盤、実際ブッダ・ガヤの文房具屋で20ルピーで売ってた。同行した若者が買っていたが、僕は買わなかった。なぜなら僕は持っているからだ。
sekiban2.JPG
 ある家の古文書とともに出てきたものだ。これには福岡市内の住所と名前が書いてあり、小学生が教具として使っていたものであることがわかる。時代は特定できないが、大正期あたりではないかと想像している。
 村を後にするとき一人の少年が僕の胸ポケットに残った最後のボールペンをくれと叫びながら驢馬車を何百メートルも追ってきた。学びの道具への執着だったのだろう。その一本を渡すわけにはいかなかった僕はけっこう胸が痛んだ。スジャータの名前を使って儲けている某企業がちょっとだけでも名義使用料を払ってやればこの村の子どもたちは救われるのに、と責任転嫁をして僕はまた旅を続けたのである。
posted by 河東真也 at 19:37| 福岡 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

手本は二宮金次郎

 二宮金次郎の像って知っているだろうか。僕が子どもの頃は校庭にあったのを記憶している。働きながら書を読んだ姿から勤勉の象徴として教訓めいた話をセンセイから聞かされたような気もする。しかし、現在では福岡市内の144校の小学校中二宮金次郎像が存在するのは19校にすぎないという(FBS調べ)。
 かつては学校にはあったものというイメージもあったが、今ではほぼ淘汰されたとでも言うのだろうか。にもかかわらずこの像は「背負った薪の数を数えると呪われる」とかいうように子どもたちの怪談話でもけっこう人気のあるキャラクターであったりする(FBS調べ)というように学校にはけっこう大切な存在感をもったアイテムなのだ。ここでちらちらと放送局の名が出てくるけど、実は5月13日のFBSの「朝ドキッ!九州」という情報番組に不肖新谷が出演して二宮金次郎像の説明をしたのだが、その時FBSが福岡市内を取材してくれたデータだ。
 ところで、戦前の金次郎像には銅像と石像があった。二宮金次郎が学校教育と結びつくようになったのは国定修身教科書の中で取り上げられたことが大きい。尋常小学校の修身科教科書でその少年期の生き方が子どもたちの育つモデルとして持ち上げられている。さらに明治44年に刊行された唱歌の国定教科書には「手本は二宮金次郎」という歌が載せられ、修身科の内容を要領よくまとめた歌詞で彼の人物像を期待される国民像として子どもたちに見せつけていったのである。
 で、その唱歌を紹介しておこう。
1 芝刈り縄なひ草鞋をつくり、親の手を助け弟を世話し、
  兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎。
2 骨身を惜まず仕事をはげみ、夜なべ済まして手習読書、
  せはしい中にも撓まず学ぶ、手本は二宮金次郎。
3 家業大事に費をはぶき、少しの物をも粗末にせずに、
  遂には身を立て人をもすくふ、手本は二宮金次郎。
 なんとすばらしい尊敬すべき少年像ではないか。これを否定する生き方を今、組合運動からでも、「同和」教育からでも示せるだろうか。
 この当時、つまり日露戦争後の日本は物心ともに非常に荒廃し、例えば内務省は地方改良運動というかたちで国民教化を展開していた。そして国力増進のために資金を国民から調達するために倹約と貯金が奨励され、修身科における金次郎の実直な生き方はこの時代を生きる格好のモデルだったのだ。まぁ、真面目さが国策に利用されたと思えばいい。
 ところがこの像が普及したのはずっと下って昭和恐慌後であった。一つは富山県高岡の銅器製造業者たちが不況脱出のために金次郎の銅像を販売した系譜であり、もうひとつは愛知県岡崎の石屋たちであった。彼らは全国小学校長会に実物を持ち込んだり、文部大臣を賛助会員とする「二宮尊徳先生少年時代之像普及会」を組織して営業活動を展開したのである。おりしも金次郎生誕150年(昭和12年)、皇紀2600年(昭和15年)というイベントもあってよく売れ、金次郎像は全国の小学校の校庭を席巻していったのである。それなりの人や団体が地元の学校に金次郎像を寄附するのが流行だったのだ。国にとってはいわゆる満州事変が始まるなど戦費調達のために勤倹と貯蓄の励行が求められる時期でもあって毎日小国民(子どもたち)に語りかける金次郎像の効果は大きかったと言える。浪費(戦争)は国民の爪の先に灯した火で行われたのだ、教育の名を借りて。
 しかし、昭和16年の金属回収令によって銅像のほうは供出させられ、武器弾薬と化してしまったのは皮肉であった。さらに意外なことに戦後も占領軍は金次郎的人物を否定せず、むしろ戦後民主主義のために評価もしていた。だから僕の子どもの頃は石像の方はまだあちこちにあったのだ。徳目というのはどういう立場でも使えるものだというのも事実である。『人権読本』と『心のノート』のちがいが問われるのはこういうところではないだろうか。そんな金次郎像だが、現代では勤倹より消費が美徳だというので人気がないのかな。
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2005年10月10日

再々、修学旅行について

 前回、修学旅行について書いたら、いつもの毒気がない、というご意見をいただいた。う~む。僕は批評家じゃなくて実直な学究なんだけどね。こうなったら意地になってマジな話を続けてやろう。
 日本で最初に行われた修学旅行は行軍に端を発していた。日本の教育は軍隊のシステムが導入されることで目標を明確にしたと言えよう。
 この行軍形式の修学旅行はすぐに全国に広まったと前回の話を結んだけど、本家の高等師範学校では様子が少しちがった。最初の修学旅行の翌年、すなわち明治二一(一八八八)年七月二〇日~八月二三日に実施された修学旅行はおかしなことになっていた。何となれば理化学科の教官は皆用事があって参加できないといい、そのため理化学科の生徒は一名だけが自由参加で同行することになった。他の生徒は避暑旅行とか帰省とかでいなくなってしまったというのである。結果的にこの日記の著者が在籍していた博物学科の教師と生徒それに新設の文学科の生徒が加わるという変則的なものになってしまったのだ。行き先は越後から会津、つまり新潟県から福島県を廻って帰るというもので日誌のタイトルも『会越游記』としている。
 ところで、この年の旅行について日誌の執筆者平澤金之助は「本回は生徒乃扮装全く従来と異なりて専はら修学の目的を遂げしめんかため銃創等を携帯せず唯旅中に必用なる襯衣靴下及び他の不要品を運搬する為め背嚢を担ひたるのみ」と記している。つまり、今回は「修学」に重きを置いたので、行軍のような軍隊的装備はしなかったというのだ。当然「軍紀ヲ固執スルモノニ非レバ行歩ハ多クハ随意ニシテ遅緩休歩其意ニ任ジ」(軍紀にはこだわらないので疲れたら休むのも気分次第)ていた。本家本元では早くも行軍離れを起こしていたのである。移動は気分次第なので一日に七里(約二十八キロ)を歩くこともあれば、二里程度にとどまる日もあった。前回は文部省が事前に行き先の各地方役所等に連絡をしてもらっていたので行く先々でかなりの好待遇を受けていたのだが、当然この年は文部省の協力は得られず宿舎や休憩所の手配は自前だったので不都合もあったようだ。しかし、彼等は実質的な「修学」のための旅行に挑んだ。交通機関が未整備なので徒歩旅行となったのは止むを得ないものの「修学」を全面に掲げた旅行となった。
 実際、日誌には毎日のように「修学」の記録が記されている。学科によって修学の内容は異なるので学科ごとに別行動をとることもあったし、平澤の在籍する博物学科も二チームに分かれ一方は「岩川教諭ニ随テ甲虫及蝶ヲ採集」し、もう一方は「斎田教諭ニ随テ植物ヲ採集ス」というように自然観察のための作業に勤しんだ。そしてしばしば「農業上観察報告(大内教諭)」「地質学上観察報告(西教諭)」と称する教師による授業があった。
 ところで、この修学旅行、実はたいへんな自然観察が予定されていた。何となればこの年の七月一五日、つまり出立する五日前、会津磐梯山が噴火していたのである。磐梯山は有史以来八〇六(大同元)年とこの一八八八(明治二一)年の二度大爆発を起こしているのだ。その噴火を記憶に留めるべく現在磐梯山の麓(北塩原村)には磐梯山噴火記念館があるのでぜひ行ってみるといい。そのくらいの大噴火だったのだ。そして高等師範学校の第二回長期修学旅行はなんとこの歴史的な大自然現象の観察が目的だった。八月一四日、一行は猪苗代町に到着した。ここでまず宿屋の主人から噴火の様子についてかなり詳しい話を聞き、翌日に現場を実検している。実際に現地の地質学的な観察を行っているが、それ以上にまのあたりにしたのはここに暮らしていた人々に突然訪れた悲劇の数々であった。平澤はそうした被害の現状もつぶさに観察して記録にとどめ、この日の記録は二十一頁に及んでいる。実際にこの噴火がどのように凄かったかがよくわかる。
 どうやら磐梯山の噴火を知ってすぐに修学旅行の計画は(おそらく)変更されたのであろう。「修学」とはまさに今そこにある問題から学ぶことであったのだ。にもかかわらず、いつのまにか学びの心は消えてしまったみたいな…。
posted by 河東真也 at 14:45| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

再び、修学旅行に行こう!

 修学旅行の始まりは師範学校で行われた行軍だったことを前項で紹介した。
 ところで、東京法令出版から佐藤秀夫編『日本の教育課題 5 学校行事を見直す』が刊行されている。このシリーズは日本の教育課題に関する史料を集めたもので、ぜんぶで一〇巻からなる。そしてこの巻が完結編となった。実はその中の「Ⅲ 系譜」の「第3章 遠足・修学旅行の歴史」の解説を僕が書いているのだ。それなら『ウィンズ』(福岡県人権・同和教育研究協議会が発行する雑誌)の「わがまま書評」にでも採り上げてもらえばいいのにと言われるかもしれないけれど、あの書評子は軽佻浮薄の感があってこうした学術書の紹介にはなじまないからね。学術書のようだけど、この本はきちんとした史料に適切な解説を加えて編集したもので、総合的な学習にバッチリ活用できる本だと思う。ぜひ学校の図書室に購入していただきたい(もちろん全一〇巻)。
 で、修学旅行の濫觴とされるのは一八八六(明治一九)年二月に東京師範学校で実施された長途遠足であった。これは前年五月に「文部省より、試に兵式体操を実施すべき旨の示達ありし……同時にまた軍隊に倣つて行軍旅行を為すべしとの議が起つた」ところに端を発し、房総地方への行軍旅行を行ったのが嚆矢とされる。この年に行軍形式の長途遠足はいくつかの師範学校で実施されている(今でも鍛錬遠足ってやってるよね)。しかし、最初に「修学旅行」と銘打った旅行を行ったのは翌一八八七(明治二〇)年三月に高等師範学校(元東京師範学校)が「七月十六日より九月十日までの中」に「三十日以上」行うと定めたことに始まる。この規程に基づいて同年八月六日~九月四日のほぼ一ヶ月にわたって行われた修学旅行が文字通り最初の「修学旅行」なのである。この時は「生徒をして銃を肩にし剣を帯びしめ、酷暑を犯して信甲駿相の山地を跋渉せしめた」(以上、東京文理科大学編『創立六十年』)ということまでわかっていたが、実はこの修学旅行に参加していた生徒の日記が出てきたのでその全貌が明らかになった。日記を書いた生徒は平澤金之助といい後に中学校長を歴任した人物で、福岡に在住のお孫さんが所蔵されていた。どういう旅行であったか、関東地方の地図を広げて見てくださいな。
 まず初日は早朝三時半に起床し、四時半に出立する。もちろん徒歩で上野駅に向かい、上野六時発の汽車に乗り、一一時一五分に横川駅に着いた。知る人ぞ知る峠の釜飯で有名な駅だ。そして正午に坂本という町に到着する。平澤はこの町の印象を「群馬県碓氷郡ニ属シ寂寥タル一市街ナリ」と書き記している。翌日は四時起床で、五時に出発し一〇時半に沓掛(沓掛時次郎で知られたところ。えっ!知らない?長谷川伸の名作だろう)に至る道のりであった。基本的に早朝に出発し一五~二〇kmを行軍し、暑くなる前に目的地に着くという行程をとった。まずは浅間山登山から試練は始まるが、濃霧の中をさまよい「子孫百代ニ至ル迄誓ツテ此険ヲ踏ム可カラズ」とその恐怖をこぼしている。その後、千曲川河畔での軍事演習のデモンストレーション、葡萄酒工場の見学(甲府)、日蝕観察(於黒駒村、もちろん黒駒の勝蔵の出身地で有名。えっ!知らない?清水次郎長のライバルだよ)、富士登山などの「修学」活動を実施しつつ箱根に到達したのが八月二四日であった。ここにしばらく滞在し、生物の採集や近隣の探索をしたり、休業日にはトランプ遊びなどに興じたりというのんびりした時間を過ごしている。そして小田原を経て国府津から汽車に乗り、九月四日九時五〇分に新橋に到着。学校に戻ったのが一一時頃であった。この間ずっと行軍していたのかというとそうでもない。通常はテロンテロン歩いて移動し、村や町が近づくとバシッと隊列を整えて行進したというから、そこは人のやることだね。
 とは言え、実際に群馬、長野、山梨、静岡、神奈川と山の中を徒歩で移動するのはたいへんなことであったが、この長途行軍方式の修学旅行はたちまち全国の中等学校に普及していった。何でかっていうと、常に上を見て、横並びをしていく体質はこの頃には存在していたということだ。高等師範がやれば、各地の師範学校がやり、各地の中学校がやるといった連鎖反応が起きたのだ。今もそうした体質は変わらない。無能な人ほど常に上を見て、横並びをしていくことをモットーとして生きているのだから。

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2005年10月05日

修学旅行に行こう!

 時々空港や駅などで修学旅行の一行と出会うことがあるけど、傍から見ると実に気色の悪い集団に見える。旅行なんだからラフな私服でよかろうと思うのは一般社会のフツーの人間の感覚であって、学校のなかにいると、こういう時こそ制服を着せなくてはならないように感じるらしい。真っ黒い制服の集団ってけっこうそれだけで威圧感があるし、それを束ねる実にラフなジャージ姿のいかつい男がやくざまがいの怒声で威嚇しているのをまのあたりにすれば誰でも多少はたじろぐというものだ。学生服が軍服だったっていう話が実にリアリティを以て感じられるのがそういうときだ。
 ところでこの修学旅行というのは師範学校の教育の中から始まったものだ。しかも、修学旅行の際に制服を着せたがるのも実は意味のあることなのである。そのあたりの事情をまずは紹介しよう。
 明治十年代の終わりころヨーロッパでの勤務を終えた森有礼は文部省に入り、兵式体操(軍事教練)を師範学校で行うように指示を出していた。そして、森が文部大臣となった頃には高等師範学校では「軍隊に倣って行軍旅行を為すべしとの議」(東京文理科大学・東京高等師範学校『創立六十年』1931年)が関係者の間に起こったという。行軍というのは『広辞苑』によれば「軍隊が隊列を組んで遠距離を移動・行進すること」である。しかし、行軍旅行の導入に対して当時の教頭であった高嶺秀夫はちょっと反発したくなった。
 この高嶺秀夫は文部省の命で教授法研究のために米国オスウィゴー師範学校に留学し、当時米国で大流行していたペスタロッチ主義の教授法を持ち帰って「開発主義教授法」として全国に普及させて教育史上に名を残した人物である。「開発主義」の理念は「活溌ハ児童ノ天性ナリ 動作ニ慣レシメヨ 手ヲ習練セシメヨ」「自然ノ順序ニ従ヒテ諸心力ヲ開発スベシ 最初心ヲ作リ後之ニ給セヨ」(若林虎三郎・白井毅編『改正教授術』明治16年刊行 ちなみに編者の若林、白井は高嶺の直弟子であり、この本は開発主義の代表的紹介書である)というように子どものなかからいろいろな力を引き出していく(つまり開発の)原則に基いており、教授法としても教育観としても注入主義を本旨とする軍隊的教育方法とはどうしても相容れるとは思えない教授法であった。
 だから高嶺は自ら教頭を勤める東京師範学校に次々としかも強引に軍隊色が持ちこまれるのが不本意だったのだろう。行軍旅行を実施するようにという指示があったとき「行軍を行なうだけというのは我が校教育の趣旨から見ておかしいじゃないか。当然のことながら学術研究という目的を持つ旅行でなければならないだろう」という教育的判断を東京師範学校の教員たちに示した。そうして各教科の教員にも旅行の引率をさせ、行った先々で生物や鉱物の標本採集とか史跡探訪などといった「学術研究」の要素を採り入れ、これを「修学旅行」と名づけたのがコトのはじまりである。教育者の意地を感じさせる。
 この修学旅行はすぐに全国に広まった。翌年の『文部省年報』では修学旅行というかたちで地理の探求や動植物の採集、実地写景そして発火演習など学術研究と行軍を合わせて行なうところがほぼ全国の師範学校で行なわれており、非常に有益である、と報告している。
 とはいえ行軍であることにかわりはない。明治19年夏に行なわれた高等師範学校の行軍旅行は生徒61名を「三小隊五半小隊十二分隊に編制し中隊長小隊長は兵式体操教師之を担任し半小隊長分隊長は生徒交番之を務め伊藤曹長之を引率し」(『教育時論 第五十号』)たという。行軍旅行にはもとい軍服であった学生服がよく似合うようだ。






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教育塔について

 ところで、彼女を祀り、美談のヒロインへとまつりあげていった教育塔とは何だろうか。実は一九三四(昭和九)年に関西を襲った室戸台風で学校が被害を受け、大阪地方で教員一八名、児童六七六名が死亡した。大阪市教育会がその慰霊の記念碑を建てようとしたのが発端であった。その計画を帝国教育会が全国規模の事業とし、天皇の下賜金や国の補助金、さらに児童や教員からの募金も集めて一九三六(昭和十一)年に建立した塔である。場所は大阪市内であったが、目的は室戸台風の犠牲者慰霊碑という次元から拡張し、教育にかかわる殉難・殉職者を祀ることになった。だから、教育塔落成式と第一回の教育祭は教育勅語渙発記念日である十月三十日に開催され、室戸台風の犠牲者のみならず、例えば日清戦争直後に起きた芝山厳(しざんがん)事件(台湾総督府学務部員が住民の抵抗により殺された事件)の犠牲者などの国家の教育に殉じた人々を祀るということになったのである。以後教育祭は毎年十月三十日に行われ、「学制」以降の学校教育現場での殉職教職員と殉難児童生徒を合祀している。そういうわけで教育塔は戦時体制下において教育の「靖国」の役割を果たしたのである。殉職・殉難という発想は人間の死を尊ぶようでいて、実は人間の死を不純な目的に利用するということではないだろうか。
 教育塔は現在も大阪城公園内にあり、教育勅語を奉読するレリーフも台座の真ん中に並んである。写真で見ると台座の上に三つ四角く見えるが、中央が中に入る入り口で両脇がレリーフだ。そして毎年十月三十日(教育勅語渙発記念日)に日本教職員組合主催によって教育祭が盛大に実施されている。その回数も一九三六年から、もとい昭和十一年から通して数えられている
 ところで教育塔は大阪城公園城南地区西側にある。地下鉄だと谷町四丁目駅が便利。案内の看板も立派なのが立っているからすぐわかる。ホンモノの教育塔は実に威厳のあるものだ。高さ36m、平面積330㎡っていうから自分の家と比べてみるがいい。そびえ立つ塔の底辺の部分は合祀室になっているのだろうが、中央に入口があり(もちろん入れない)、その左右にレリーフが掲げられている。塔の設計もレリーフの製作も公募によるものであった。
 レリーフの制作者長谷川義起氏の言によれば「静を常として、動を非常時の気分で」構想し、「静動二相の中に教育者の抱懐する教育尽忠、教育報国の大精神を芸術的に顕現して見よう」という意図に基づくものであった。向かって左側が動を表現したもので、この教育塔が建立されるきっかけとなった室戸台風にちなんでか、「教育者が教へ子を背負ひあるひはその手をひいて、暴風雨をものともせず、児童を誘導しつゝ避難する有様」を描いている。静は「講堂内の式の状況に象どり、校長先生が訓示してゐるところを構図した」という。「初めの試案は、校長先生が教育勅語を奉読する場面を考へたのであるが、あるひは抵触することを慮り」結果的に「訓書清読」を描いたという。しかし、「訓書清読」などというものは行われるわけもなく、見たとおりこれは「教育勅語奉読」そのものであると考えていい。それにしてもこれらのレリーフは予想以上に大きかった。写真でもわかるように僕の身丈よりもはるかに大きく、迫力がある。
 戦後、日教組内部でも大日本教育会から教育塔を引き継ぐにあたりその存廃をめぐって論争があったようだ(日教組「週間教育新聞」第22号 1947.10.15 但し教育塔を考える会『教育の「靖国」』所載のものを参照)。廃止論は教育塔を軍国的教育の元締めであった大日本教育会の宣伝道具であった教育塔を廃棄し、平和的、民主的な見地から死をもって教育の良心を護った真の教育者の記念碑を教組の手によって新設すべきだという考えであり、存置論は過去の教育は軍国主義的な面もあったがいい面もあった。教育塔は教育の犠牲者となった先輩教育者を祀ったもので、教育会の遺したいいもののひとつである、という主張であった。
 創設当時の教育塔規程によれば学校職員表彰規程第一条に該当しそのことで死亡した者、すなわち「学校職員ニシテ自己ノ危難ヲ顧ミズシテ職務ニ尽シ其ノ所為教育者ノ亀鑑為スモノ」が殉職した場合合祀の対象となった。現在では「教育活動中に死亡した教職員・保護者・教育関係者の方々」が審査によって「合葬者」になれる。
 同じ城南地区の東側には大阪国際平和センター(ピースおおさか)があって、いい展示をしている。ぜひ教育塔と合わせて見てくるといいだろう。
(参考文献 教育塔を考える会『教育の「靖国」』樹花舎)

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教育棟のレリーフ。上が台風から子どもを守る教師、下が教育勅語を読み上げる校長と無表情に聞く子どもたち。大きさは僕の背丈より大きい。
 

教育の靖国なのだ
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2005年10月03日

殉職という美談

 話を再び殉職に戻そう。御真影を守るために殉職した女性教員の第一号は杉坂タキという23歳の教員であった、とされる。一九二三(大正十二)年九月一日正午直前、あの関東大震災が首都圏を襲った。震源地は相模湾北部の地点であったから杉坂訓導(現在の小学校教諭)が勤務していた神奈川県足柄下郡酒匂尋常高等小学校の築後30年の校舎は瞬時にして崩壊し、まもなく中央校舎及び西部校舎は全焼してしまった。出火原因は職員室内にあった理科薬品戸棚が崩壊して黄燐ナトリウムなどからの発火だという。もちろん職員室は中央校舎にあった。御真影を納めた奉安所は職員室の北側の窓の上にあり、台にのぼらないと取り出せない高さにあったという。地震が襲ったとき職員室にいた教師たちはちりぢりに逃げ出したのだが、この時杉坂タキは逃げ遅れて落命したのである。
 杉坂タキが殉死女教師として評判となったのは一九三七(昭和十二)年十月三十日に行われた第二回教育祭において教育塔に杉坂タキが合祀されたことと、そしてこの年に帝国教育会が発行した『教育塔誌』にあまりに感動的な彼女の死に様が描かれていたことによる。『教育塔誌』には杉坂タキについて「大震災ニ際シ日直トシテ勤務中大震ニ遭ヒ御真影奉安所前ニテ『御真影御真影』ト叫ビツツ一死以テ奉護シ猛火ニ包マレテ殉職ス」と記されている。奉安所の前で「御真影!御真影!」と叫びながら猛火に包まれて殉職したという何と壮絶で麗しい最期ではないか。他の殉職者の紹介記事はもっと簡素に合祀の理由が記されているだけであり、このようなセリフ入りで感動を煽る文は他には見あたらない。その結果、杉坂タキはまさしく御真影に殉じた美談の主人公となり、美貌の女性教師の殉職譚として語り継がれていったのである。こういう死を遂げるとなるとどうしても美人でなくてはならないらしく、杉坂タキも美人教師として伝説化していった。それもこの時代のなせることであり、今ならばジェンダーバイアスのかかった評価だろう。
 ところがどうもこれは真実ではないようなのだ。もとより、「御真影!御真影!」と叫んで焼け死んでいったのならば、それを目撃していた人も無事では済まなかったと思うのだが…。そのあたりの眉唾的なところに気がつかなかったこともおかしいと言えたのだが、現実にそのように記述されてしまったのである。実際には彼女は職員室を出て小使室の前で焼死体で発見されているし、焼ける前に圧死していたということであった。つまり、御真影とは離れたところで御真影のことを考える余裕もなく死んでいったのが真実に近いし、彼女の周辺ではその死はほとんど御真影焼失と結びつけては考えられてはいなかった。それをかくも美化して『教育塔誌』に描かれたのはいったいなぜなんだろうか。
 岩本努氏が丹念に当時の関係者を調べているが、杉坂タキがそのように美化されていった経緯はおろか、当時はその事実すら関係者には知られていなかったという。唯一当時の校長の書いた日誌(「学校日誌」ではない)にのみ彼女が奉安所の近くで死んでいたと記されているのだそうだ(事実とはちがう)。この日誌(岩本氏によれば校長の御真影消失責任回避の弁明書と考えていいそうだ)が杉坂タキ殉職美談が生まれた根拠のようなのだ。岩本氏は「死者はもとより校長や遺族にとっても最もよいという〝善意〟の処置からまかれた種であったろうが、時代の潮流の中で自己増殖し、ファシズムの嵐の中で〝急成長〟を遂げていった」と結論づけているが、必ずしもそうとは思えない。
 なぜなら、杉坂タキが合祀されたのが第二回の教育祭であったという不自然さである。教育塔の落成式とともに行われた第一回の教育祭では合祀された教職員は一三七柱、児童生徒は一四三五柱であり、翌年の第二回教育祭では合祀された教職員二七柱、児童生徒一二八柱だった。杉坂タキは第二回の教育祭で教育塔に合祀されている。杉坂タキが殉職した関東大震災では多数の死者を出しており、多くの教職員が合祀されている。第一回教育祭では十四名が関東大震災の犠牲者として祀られ、そのうち八名が御真影の守護による殉職だった。しかし、第二回教育祭では関東大震災関係の殉職者は十三名と前回同様ではあるが、祀られた教職員は二七名に過ぎず、関東大震災の殉職者はそのうち半数近くになっている。にもかかわらず、その中で御真影にかかわったのはなんと杉坂だけであった。杉坂タキだけが特別扱いされたのはなぜだろうか。そこには日誌を書いた校長も関係なくもっとちがった作為があったと考えられる。
もうひとつ関係者とは関係のない意思が杉坂タキの伝説づくりにかかわっているように思えるのだ。そして、教育塔なるものが一九三〇年代という時代を象徴し、そこに彼女を合祀することが非常に大きな意味を持っていたことの証であろう。うら若き(しかも美人の)女性教師が「御真影!御真影!」と叫びつつ業火に焼かれていったというドラマが人々に感動を与えていったことはまちがいないし、その効果は実に大きかったのだ。

         参考文献 岩本努『「御真影」に殉じた教師たち』大月書店
 

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教育の靖国なのだ

参考文献
posted by 河東真也 at 17:13| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

御真影が盗まれた!

 ところで、御真影が実際に火災とか盗難にあった場合はどういうことになったのだろうか。その他の実例を見てみよう。
 時は一九一六(大正五)年二月八日朝七時をいくばくか過ぎた頃、場所はM県T村広原尋常小学校(仮称)、事件は発覚した。この朝、宿直明けの森田宏三校長(仮名、以下登場人物はすべて仮名)は朝七時くらいから校内の見回りをしていたが、その際に奉安室に異変を認めた。なんと「御真影」が盗まれていたのである。森田校長は「周章狼狽恐懼措ク能ハス」という混乱ぶりで、とりあえず「児童ニ秘シテ」校内をくまなく探したが見つからず、午後三時頃にようやく郡役所に届け出た。郡役所から県庁と所轄警察署に連絡が行き捜査が始まったのである。話は校長の不安をよそに大きくふくらんでいった。校長には奉安所に関して彼自身の不始末がまだあったのである。実は奉安所には「御真影」とは別に「日露戦役戦利品」の小銃が二挺保管してあった。その内の一挺が前年の十二月十七日にたまたまわかったのだが、やはり盗難に遭っていたのだ。しかし、校長はそのまま事を明らかにせずに放置していたのである。だからこの「御真影」の盗難は起こるべくして起きたことであって校長としては大失態だったと言える。今回もまずは事の発覚を恐れて通報が遅れているし、いつの世も変わらぬ中間管理職の小心さがよくわかる。もしも僕がその校長だったらと考えると同情も禁じ得ないけど…。
 警察の懸命の捜査にもかかわらず犯人は見つからなかった。関係者はそれぞれ「手続書」(始末書みたいなもの)を提出して処分を待つことになった。
 はたして三月十六日に下された処分は以下の通りであった。
 森田校長についてはまず日露戦役戦利品中小銃が一挺盗まれたことについて十二月十七日に偶然発覚するまで全く気付かなかったというのは平素の取締不行届であったこと、そしてそのように奉安所が荒らされたにもかかわらず校内の取締を等閑に付していたことが原因で、しかも自分の勤務中に「御真影」が盗まれたのは職務怠慢である、ということで一ヶ年間月俸五分の一減俸の処分となった。また、T村助役で村長代理であった丸野源五郎は管理不行届を問われて過怠金十円の処分、たびたび広原校を視察しているにもかかわらず奉安室の不備に気づかなかった郡視学の中村尚之は職務怠慢として譴責処分、一週間前に同校を視察した際に不備を見落としたとされる県視学の川野弥平は「将来篤ク注意スヘシ」として訓告処分とされた。また、彼らの上司である県内務部長、県視学官そして郡長の三名についても手続書を差し出させ(郡長は進退伺)、内務大臣の判断を仰いだのである。
 この事件は少なくとも県内務部長まで責任が問われ、知事が内務大臣に始末書を出すことになったことで事の大きさがわかるだろう。とはいえ命と引き替えにするほどのことでもなかったのだから前項で殉職した人は運が悪かったのかもしれない。
 ところで二年後、事件は唐突に解決した。一九一八(大正七年)五月七日、「稟性大胆ニシテ平素常人ノ企及スヘカラサル窃盗暴行其ノ他ノ不良行為尠カラス深ク注意中ナリシ」(日頃悪さをしているので目を付けていた)広原尋常小学校の卒業生(十五歳、事件当時尋常四年在学)を「他人ノ犬ヲ使嗾シテ同部落ノ少女ヲ咬傷セシメタルヲ機トシ巡査駐在所ニ同行」(他人の犬をけしかけて女の子に噛みつかせたので交番に連行)したとして連行し、尋問したところ小銃及び「御真影」窃盗の件を自白したというのだ。理由は「一月一日ノ拝賀式ニハ距離遠クシテ明カニ御影ヲ拝スルヲ得サリシヲ以テ陛下ハ如何ナル御顔ナルヤ之ヲ親シク拝セムトノ念慮」から二月七日夕刻に奉安室に忍び込んで「御真影」を盗み出したが、発覚を恐れて燃やしてしまったという。小銃は十一月あたりに盗み出し、しばらく兵隊の真似などして遊んだ後で薮の中に隠していたが、そのうち誰かに持ち去られたというのだ。
 興味深いことに真犯人が子どもとわかったところで、処分が保留されていた郡長は訓告、内務部長と視学官についてはその筋から不問に付すように通知があって責任は問われなかった。ちなみにこの二人はいわゆるキャリア組で既に内務部長はN県内務部長に、視学官はY県理事官に転出して恙なくその後の完了人生を堪能していた。お役人の世界はいつの世も…
posted by 河東真也 at 17:10| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

御真影は命より重くて

 一八九六(明治二十九)年六月十五日、三陸海岸を大津波が襲った。中でも岩手県の死者は二三、三〇九名にのぼり、この大津波の犠牲者は日清戦争の戦死者を上回ったという歴史的な大津波であった。もちろん学校も多く被害にあった。上閉伊郡箱崎村の箱崎尋常小学校もその一つであった。この小学校の訓導栃内泰吉は津波の報を聞いて家族を避難させると学校に向かった。そして御真影を身体に紐でくくりつけたところで津波に呑み込まれたのである。栃内は翌日瀕死の状態で救出されたが、十七日になってついに息絶えたのである。しかし、「御真影ハ絶命スル迄身辺ヨリ放タズ奉護シ為ニ御真影ハ安全ナルヲ得タリ」と御真影は身体に括りつけてあったために無事だったと記録されているが、津波に巻き込まれて濡れたり汚れたりはしなかったのであろうか。やや疑念は残るが、おそらく日清戦争後の国威発揚の文脈の中でそこには触れずに話は広まっていったのだろう。実際、世論の一部には写真のために命を犠牲にするのではなく、生き長らえて実際に国家に尽くすべきではないか(例えば徳富蘇峰主宰『国民新聞』)、という意見もあったのだが。しかし、世論は栃内の行為を美談にするべく、こうした意見を押し潰していった。すなわち、御真影に殉ずるのは理屈ではなく感情なのだ、この感情こそが国民として大切なのだ、と(例えば『教育時論』など)。こういう感情に訴える論法というのは戦前日本のあらゆる部分に表出している。いや、戦後だって捨てたものじゃない。部活やらでもそんな精神主義がけっこうまかり通っているんじゃないですかねぇ。
 とは言え栃内の殉死はおそらく御真影と命を共にした最初の事例であり、御真影が命と引き替えになるだけの価値があるものとして位置づけられていく役割を果たしたということになるであろう。美談が市民的世論となっていく過程を見ると、現在も私たちは感情にふりまわされて動いてしまうことを重々反省しなくてはならないだろう。
 ところで、御真影は当初学校内に奉置することとされていたのであるが、木造校舎ばかりであった当時において学校は常に火災の危険にさらされていた。僕はかつてある県庁文書の中に「始末書」の束があったのを見たことがある。それらはいずれも御真影にシミをつけてしまったという反省文に満ちていた。ある学校が昭和6年にしたためた始末書には「当校ハ金庫式ノ奉安箱」を使っていたとあり、その密封性故にシミも生じたのであろう。金庫式としたのは防火上の配慮であったのだろうが、それが裏目に出たということだろうか。そのような必然的な現象ですら始末書を書かされるのであるから精神主義というのはまったくいやはやである。
 やがて奉安所は学校の外に置かれるようになる。その契機となったのは中島校長殉職事件というものであった。どういう事件かというと、一九二一(大正一〇0)年一月六日に長野県埴科郡南条尋常高等小学校で火災が発生して中島仲重校長が殉職した事件である。火災の発生を知るや中島校長は二階の宿直室にあった御真影奉安所をめざして猛火に包まれた階段を駈け上ったが、階段はそのまま焼け落ち中島校長も焼死してしまったのである。何で二階に御真影があったのかというと、御真影を神聖化するあまり子どもたちがその上を走り回るのは問題であるとして二階に奉安所が置かれるようになっていたことがこの悲劇をもたらしたといえる。つまり、このことから学んだことは、御真影を奉安する場所は耐火性に優れるばかりでなく、避難しやすい場所でなければならいという教訓であった。それで学校内を学校の敷地内という理解で拡大解釈し、敷地内に神殿風の奉安殿を設けることがこの事件以降流行しはじめ、一九三〇年代には主流となっていった。
 ところでもう一つエピソード。御真影を不慮の事故から守るにあたっては物的設備のみならず人的警備も必要になってくる。そこで常に教職員がこれを管理するために日直宿直の制度が実施されるようになったというのだ。このことは是非とも覚えておいてほしい。現在も学校を警備するという発想があるが、もとより御真影警護が出発点だったのである。現金が置いてあるとか、試験問題が置いてあるとか言うかもしれないが、それはちがった方法で守れることだし、不審者を締め出すとかいうのは別の問題であろう。まあ、当初の理由がいつしかすりかわっていくことはよくあることで、学校においてはよくよくあるみたいだ。

参考文献;『続・現代史資料 8 教育1』みすず書房
     岩本努『「御真影」に殉じた教師たち』大月書店



        



posted by 河東真也 at 16:51| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

御真影に拝礼!

 みなさん、有意義な紀元節をすごしましたか?僕は〈この日はぜったいに仕事をしなければならない〉という課題を自分に課していますので、当然祝日にはしません。僕は大学の教員であります。法人化以降の国立大学は教育は大学の重要な仕事である、として学生の教育を重んじますし、研究は個人評価の基本だとか言って点数化しては私たちの人物評価に持っていこうとしています。しかし、僕は教員になってからというもの学生の教育に対する熱意を欠かしたことはありません。殊に紀元節の日は祝日でも何でもなくいつものように学生諸君との人間関係を深めるというもっとも重要な仕事をします。ですからこの日はいつも深酒が過ぎて……。
 それはともかく前項で述べたように祝祭日というのは子どもたちを学校に集めて儀式をやる日だった。そして最初決められた儀式は「御真影」拝礼、教育勅語奉読、校長訓話、祝祭日唱歌斉唱という内容で進めるものだったのだ。ところで「御真影」って何だろうか。これは実は天皇の肖像写真のことだ。まずは天皇の写真に深々と礼をしたところで校長先生が教育勅語をありがたく朗読する。その後校長先生から教育長ー九後に関するありがたいお話があり、その日のテーマソングとなる唱歌を歌って儀式が終わるのである。
 その「御真影」だが、天皇の写真というのは明治のはじめくらいからあちこちに配布されてはいた。しかし、それを儀式に使うといった用い方はされてはいなかった。というより、民間では明治天皇の肖像はふつうに売り買いされていたのである。明治15年6月26日付の「東京日日新聞」には「聖上両皇后宮の御像を石版または油絵彫刻等に造り各営業人の店頭へ差し置き候て諸絵草紙、各書画類と一般に売り捌き候ては不都合なりとて…」(天皇夫妻の肖像を石版や絵や彫刻にして店先で絵草紙や書画と一緒に売買するのは好ましくないので…)ということで警察が業者に注意をしたという記事が載っている。宮内省は天皇の肖像が売り物になることはもちろん、商品となった肖像が街頭で踏みつけられたり、くしゃくしゃにされたりすることには我慢ならなかったようである。しかし、まだテレビも映画もなく、新聞だって写真の載っていない時代のことである。当時の国民はほとんど天皇というものを見たことがなかった。だから、そうやって印刷される天皇の肖像というのは実は本物の天皇を描いた肖像(しょうぞう)画というより、天皇の想像(そうぞう)画だったのである。だから宮内省や警察が取り締まろうとしても説得力はなかったところがつらいところであった。新田和幸氏の研究によれば天皇の肖像というのは御守りとかブロマイドのようなもので、それを持っていると御利益があるというふうに考えられていたようなのだ。しかもこの俗っぽい天皇人気は学校での儀式の中で使われるようになる明治20年代初頭にピークに達し、明治24年には宮内省はなんと天皇の肖像の販売を黙認することになったのだという(「1892年文部省による尋常小学校への「御影」普及方針確定の経緯」)。尤もこういう俗世間的な天皇人気を一方で利用するのは天皇を認知させるにはいい手であったのかもしれない。
 ところで、「御真影」というのは「皇族の公式肖像写真に対する尊称的通称」(『続・現代史資料8教育1』佐藤秀夫解説)であって、宮内省の公式名称は「御写真」という。つまり、「御真影」とは天皇の写真だというふうに思うのがふつうだろう。しかし、驚くべきことにいちばんよく知られている明治天皇の「御真影」だが、実はこれは明治天皇を写した写真ではなくて絵だった。描いたのはイタリア人御雇い彫刻家キヨッソーネ(Chiossone,Edoardo)である。キヨッソーネは大蔵省印刷局創設以来の御雇い外国人で、紙幣、切手、印紙、公債などの原版を彫刻していた人物である。彼の描いた(彫った)明治天皇の肖像を日本人写真師が撮影したものが明治天皇のもっとも普及したと言われる「御真影」であった。なぜ実写でなかったのかというと実物の明治天皇は見かけが貧相であったからだという風説もあるが、真実はわからない。明治24年7月19日付の「日本新聞」には帰国するキヨッソーネを送る記事の中で「因に記す同局に於ては此程畏き辺りの御肖像調整中の趣にて、氏は最も精神を凝らし、目下彫刻中なりといふ」と報じており「御真影」が〈絵〉であることはどうも秘密ではなかったようだ。




posted by 河東真也 at 16:17| 福岡 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | 更新情報をチェックする

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