しかし、敗戦となれば、その価値はぐっと下がった。しかも、戦争にうんざりしていた国民にとって日の丸や君が代はかなりうざい存在だったみたいだ。とにかくモノのない時代でもあったので、戦争前に各家庭で掲揚されていた日の丸は風呂敷や、あろうことかおむつなんかに転用されていたという話もある。
それならば新しい国旗と国歌を作って戦後民主主義の改革をすすめてもいいものだったと思うんだが、誰もそんな気分にならない。まあ、喰うのに精一杯だったからね。そんなときは国旗や国歌なんかにかまってはいられないんだな。まあ、旗はおむつにできても、歌は使いようがないし、転用もできない。一部ではGHQの天皇制堅持の方針の中で歌われてもいたが、一般には、まぁ、忘れられていたとでも言っていいのかもしれない。
ところが、だ。1950年5月に天野貞祐という人が文部大臣に就任した。吉田茂が懇請して入閣させた哲学者だ。天野は1937年、まさに日中戦争勃発と機を同じくして『道理の感覚』という本を出したんだが、その中で痛烈に時代を批評した。殊に修身教育(教員)や軍事教練(軍事教官)を批判している部分ところがあって、関係筋から袋だたきにあって自主絶版するという経験を持ち、戦後は教育刷新委員会の委員として教育基本法の作成に当たった人物で、自由主義者として知られていた。天野は文相になって5ヶ月ばかりたった10月17日に談話を発表した。それは国民の祝日には「国旗を掲揚し、国歌を斉唱することもまた望ましいことと考えます。又、各官庁、各家庭においてもぜひともこれらの祝日には国旗を掲揚し、祝意をしめされるようおすすめします」というものだった。そしてこの内容は全国の教育委員会に通達されたのだった。
これに日教組は反発した。日教組が反発したのは国旗・国歌ではなく、「日の丸」・「君が代」だったのだ。じゃあ、「君が代」ではない国歌をつくればいいだろうということで、新国家制定の運動を始めることにしたのだ。当時法制部長だった槙枝元文が天野文相に抗議に赴いた際に、「新しい国歌を作りたい」と日教組の考えを伝えたところ天野も賛成したのだそうな。なもんで、日教組は翌年6月の第8回大会で新国歌制定運動を提唱したのだ。そして公募の結果、東京の小学校教員原泰子作詞、新潟の中学校教員小杉誠治作曲になる「緑の山河」が選ばれた。日教組(福教組)に入っている方は今でも歌われているからよく知っているだろう。
(一)
戦争超えて たちあがる みどりの山河 雲霽れて いまよみがえる 民族の
わかい血潮に 天を往く 世紀の朝に 栄あれ
(二)
歴史の門出 あたらしく いばらのあゆみ つづくとも いまむすばれた 同胞の
かたい誓に ひるがえる 平和の旗の 指すところ ああこの道に 光あれ
ところがこの「緑の山河」は日教組の歌という性格がつよく、広く国民に広がることはなかった。
しかし、独立後の1953年1月、壽屋(現サントリー)の専務だった佐治敬三が「新国民歌」の募集を提案したのだ。これには50,823の応募があり、採用されたのが「われら愛す」という曲だ(芳賀秀次郎作詞、西崎嘉太郎作曲)。
一番だけ挙げておこう。
われら愛す 胸せまる あつきおもひに この国を われら愛す
しらぬ火筑紫のうみべ みすずかる信濃のやまべ
われら愛す 涙あふれて
この国の空の青さよ この国の水の青さよ
しかし、この「われら愛す」も盛んに広められたが、数年後には人々の耳から遠ざかっていく。それはやはり日教組とか壽屋といった特定の団体・企業が募集したもので、国民の総意というわけにはいかなかったからかな。やはり、国歌は国がつくるものなのだろうか。なにしろ、国を愛する歌だからね。
参考文献;田中伸尚『日の丸・君が代の戦後史』岩波新書
生井弘明『「われら愛す」―憲法の心を歌った“幻の国家”』かもがわ出版
槙枝元文『槙枝元文回想録』アドバンテージサーバー
(文中敬称略)
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