2009年09月29日

新しい国歌をつくろう、ってか

 以前「君が代」について書いたことがあるけど覚えているかな(拙著『学校は軍隊に似ている』38頁に所収)。「君が代」は国歌ではなかったが、国歌のように歌われることで大きな歴史的役割を果たしてきた。
 しかし、敗戦となれば、その価値はぐっと下がった。しかも、戦争にうんざりしていた国民にとって日の丸や君が代はかなりうざい存在だったみたいだ。とにかくモノのない時代でもあったので、戦争前に各家庭で掲揚されていた日の丸は風呂敷や、あろうことかおむつなんかに転用されていたという話もある。
 それならば新しい国旗と国歌を作って戦後民主主義の改革をすすめてもいいものだったと思うんだが、誰もそんな気分にならない。まあ、喰うのに精一杯だったからね。そんなときは国旗や国歌なんかにかまってはいられないんだな。まあ、旗はおむつにできても、歌は使いようがないし、転用もできない。一部ではGHQの天皇制堅持の方針の中で歌われてもいたが、一般には、まぁ、忘れられていたとでも言っていいのかもしれない。
 ところが、だ。1950年5月に天野貞祐という人が文部大臣に就任した。吉田茂が懇請して入閣させた哲学者だ。天野は1937年、まさに日中戦争勃発と機を同じくして『道理の感覚』という本を出したんだが、その中で痛烈に時代を批評した。殊に修身教育(教員)や軍事教練(軍事教官)を批判している部分ところがあって、関係筋から袋だたきにあって自主絶版するという経験を持ち、戦後は教育刷新委員会の委員として教育基本法の作成に当たった人物で、自由主義者として知られていた。天野は文相になって5ヶ月ばかりたった10月17日に談話を発表した。それは国民の祝日には「国旗を掲揚し、国歌を斉唱することもまた望ましいことと考えます。又、各官庁、各家庭においてもぜひともこれらの祝日には国旗を掲揚し、祝意をしめされるようおすすめします」というものだった。そしてこの内容は全国の教育委員会に通達されたのだった。
 これに日教組は反発した。日教組が反発したのは国旗・国歌ではなく、「日の丸」・「君が代」だったのだ。じゃあ、「君が代」ではない国歌をつくればいいだろうということで、新国家制定の運動を始めることにしたのだ。当時法制部長だった槙枝元文が天野文相に抗議に赴いた際に、「新しい国歌を作りたい」と日教組の考えを伝えたところ天野も賛成したのだそうな。なもんで、日教組は翌年6月の第8回大会で新国歌制定運動を提唱したのだ。そして公募の結果、東京の小学校教員原泰子作詞、新潟の中学校教員小杉誠治作曲になる「緑の山河」が選ばれた。日教組(福教組)に入っている方は今でも歌われているからよく知っているだろう。
(一)
 戦争超えて たちあがる みどりの山河 雲霽れて いまよみがえる 民族の
 わかい血潮に 天を往く 世紀の朝に 栄あれ
(二)
 歴史の門出 あたらしく いばらのあゆみ つづくとも いまむすばれた 同胞の
 かたい誓に ひるがえる 平和の旗の 指すところ ああこの道に 光あれ

 ところがこの「緑の山河」は日教組の歌という性格がつよく、広く国民に広がることはなかった。
 しかし、独立後の1953年1月、壽屋(現サントリー)の専務だった佐治敬三が「新国民歌」の募集を提案したのだ。これには50,823の応募があり、採用されたのが「われら愛す」という曲だ(芳賀秀次郎作詞、西崎嘉太郎作曲)。
 一番だけ挙げておこう。

 われら愛す 胸せまる あつきおもひに この国を われら愛す
 しらぬ火筑紫のうみべ みすずかる信濃のやまべ
 われら愛す 涙あふれて
 この国の空の青さよ この国の水の青さよ

 しかし、この「われら愛す」も盛んに広められたが、数年後には人々の耳から遠ざかっていく。それはやはり日教組とか壽屋といった特定の団体・企業が募集したもので、国民の総意というわけにはいかなかったからかな。やはり、国歌は国がつくるものなのだろうか。なにしろ、国を愛する歌だからね。

参考文献;田中伸尚『日の丸・君が代の戦後史』岩波新書
生井弘明『「われら愛す」―憲法の心を歌った“幻の国家”』かもがわ出版
槙枝元文『槙枝元文回想録』アドバンテージサーバー
(文中敬称略)





posted by 河東真也 at 18:47| 福岡 曇り| Comment(6) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

赤い鳥逃げた?

 「あゝ、日本の児童は入学の当初から呪われている」と北原白秋は日本の唱歌を嘆き、その唱歌の精神で形づくられているところの日本の学校を嘆いた(承前)。実はこの頃の白秋は子ども向け雑誌『赤い鳥』に自作の童謡を発表し、また子どもたちが投稿してくる詩の選者もつとめていたんだな。その事情をちょいと説明しよう。
 大正7(1916)年2月16日、親友の鈴木三重吉という男が白秋の家に来た。何か頼みごとがあるようであった。訊くとそれは新たに子どものための雑誌の創刊に関することであった。つまり三重吉は白秋に童謡をつくれと言ってきたんだな。歌人として名をあげていた白秋に童謡を作れと言うのは、まあ、親友だから言えたことかもしれない。
 この鈴木三重吉がこの雑誌を創刊したことについて「すず伝説」というのがある。鈴木三重吉は夏目漱石門下の小説家で、なかなか売れないものだから中学教師をしながら小説を書いていた。そして長女すずが生まれた。すずに物心がつくようになると三重吉はすずのために読んで聞かせる書物を探したが、なかなかそれにふさわしいものはなかったんだな。そこですずのために自ら読み物を書いてやろうと思った、というのがいわゆる「すず伝説」として伝わっている話である。
 その真偽はともかく、その当時の子ども向けの読み物は巌谷小波なんかによって拓かれた少年文学というものが主流であった。名前くらいは聞いたことがあるだろう。これはこれでおもしろいものなのだが、三重吉は不本意であった。三重吉によれば、それら少年少女向けの読み物や雑誌は俗悪な体裁をしていてとても子どもに買って与えるものとは言えなず、内容も下品であり、表現も下卑ている、と言うのである。三重吉は日本人はこれまで哀しいことに子どものための芸術家を持ったことがないとまで言い切り、芸術性を重んじた童話と童謡を創作する文学的運動として子ども向けの雑誌の発行を思い立ったわけだ。
 すでに歌人として名声を得ていた白秋はどうしたかというと、すんなりこの話を受け入れたようなのだ。この時の白秋は経済的な事情を含めて短歌に見切りをつけかけていた時だったらしく、すぐ翌日にはこの雑誌の名を提案する手紙を三重吉に送っている。雑誌は『赤い鳥』と名づけられ、その年の7月に創刊した。
 『赤い鳥』は画期的な雑誌だった。執筆者には白秋を始め、島崎藤村、芥川龍之介、泉鏡花、小宮豊隆といったそうそうたる顔ぶれを並べた。なんと芥川龍之介の「蜘蛛の糸」はこの創刊号に載せられた作品なのだ。「蜘蛛の糸」は知っているよね。桂枝雀が「茶漬えんま」という落語でそのパロディを演じているので一度鑑賞してごらん。ともかく『赤い鳥』はまもなく3万部という当時としてはたいへんな売れ行きを示すことになったのだ。
 ところで、『赤い鳥』のおもしろいところはそうした子ども向け文学作品を掲載したことだけではなく、子どもたちに作品を投稿させて掲載したことなんだ。そして、白秋は童謡や詩の、三重吉は綴方の選者をした。彼らは子どもたちから寄せられた作品に批評を加えて掲載するという形でものを書くことの指導をしていったのだ。白秋はそれまでの五七調といったような定型にとらわれず、自由に詩を書くように言い、それを児童自由詩と称して広めていった。三重吉も子どもが思ったこと、あったこと、言いたいことを口で話すように自由に書くように指導した。そして詩や作文を芸術として位置づけ、それらを創作することで人間性を高めていくことを目的とするようになっていった。
 ものを書くということはただ事実を伝達することではなく、自己表現であり、芸術活動なのだというのが二人のモットーだったのだ。それはこれまでの型にはまった表現や伝達のための作文とはまったくちがった分野を子どもたちに与えるものだったわけで、白秋が型にはめるのが大好きな学校を憎んだのはこういうことだったんだな。
 まあ、しかし、芸術性を求めた『赤い鳥』は都市中間層、つまりええとこのボンボンやお嬢さんが主たる読者だったこともあってその後伸び悩んだ。かわりに大衆向けの『少年倶楽部』が30万部以上も部数を伸ばし、世は大衆路線へとなびいていったのである。
 ああ、赤い鳥は何処へ飛んでいったの?
参考;三木 卓『北原白秋』筑摩書房 2005
   河原和枝『子ども観の近代』中公新書 1998年
ちなみに標題は1973年の東宝映画『赤い鳥逃げた?』から借用した。
      (藤田敏八監督、桃井かおり・原田芳雄主演だけど、知ってた?)
posted by 河東真也 at 18:43| 福岡 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あゝ、日本の児童は入学の当初から呪われている

 前回、山本鼎のことを書いた。
〈不自由の反対が自由〉
 そう言って、山本鼎は児童自由画というものを提唱した。山本は画家である。美術の専門家だから美術が学校の中で図画なるものに歪められ、「何かの役に立つもの」として扱われたことが不自由の原因であることを山本は見抜いていた。確かに今でも答の決まっているように思える数学や、法則があるかのように見える理科、覚えてしまえばいいような社会科、いずれも何かの役に立てようと扱ったところで不自由になってしまう。学校というところはどうにもそうやって何もかもつまらなくしてしまうところらしい。しかもそれは単につまらないかつまらなくないかということではなく、子どもの人権にかかわることなんだな。
 で、小説風に…
 山本鼎の妻家子の兄である隆吉は鼎の話を聞くと、自分の少年時代を思い起こした。裕福な酒屋の息子として生を受けた隆吉は乳母に連れられて始めて学校の門の前に立ったとき恐怖で泣きわめいたという。彼は首席を通して尋常小学校を卒業するが、にもかかわらず、卒業式の日に学校の門を出るとき旧友たちと学校に向かって「バカ学校!」と叫んだという。それはなにゆえであったか。隆吉は一篇の唱歌を読み解いたとき、その理由がわかった。その唱歌は次のようなものであった。
学校
1.私の学校よい学校よ 教場広い 庭広い
  掛図やご本やいろいろな 珍しいものたくさんあって
2.私の先生よい先生よ 私たちをかわいがり
  読み書き算術いろいろな よいこと教えてくださいまして
3.私の友達よい友達よ 毎日仲良く元気よく
  遊戯やなにかいろいろな おもしろいこと一緒にやって
 読者諸君は何か感づいたかな。山本鼎の義兄である北原隆吉。何を隠そう、世に北原白秋として知られる歌人、詩人である。もちろん柳川出身だということは福岡の人間なら誰でも知っているだろう。白秋は山本鼎の影響を受けて「詩、絵画、音楽の三つの芸術が児童の美的情操を薫養する上で何より重要である」とかなんとか言ってこの「学校」という唱歌の分析を行ったのである。
 白秋の分析はきびしい。よい学校とはどんな学校か、よい教師とはどんな教師か、よい友達とはどういうやつか。こういう問いを投げかけながらこの唱歌はとんでもないまちがいを子どもに植え付けようとしている。設備の完備した学校が果たしてよい学校なのか、子どもたちを生き生きとさせるものについて語らずに外形的物質的なもので学校の良し悪しを歌っているではないか。よい教師とは…かわいがると言っても母親のような愛情があるか?ものを教えると言っても問題を解くテクニックだけで知識の中にある精神は教えていない。子どもの知識欲にひびくことはしていない。ただ、視学(指導主事みたいなもの)にべんちゃらを言い、自分の虚名だけにしがみついているじゃないか、と。そしてよい友達とは…よい友達とは歌詞のように仲良しだけでいいのか。この社会の公人としての関係性は与えられているのか。いないだろう。
 白秋は言う。この歌詞の中から浮かぶのは血の通っていない、紙製の教師や生徒が糊付けされて作られた人形の学校でしかないと。そして白秋は子どもたちを「その成人(つまり教師というおとなだ)の規定した頑固一点張りの教育方法によって絶えずその強圧と掣肘と束縛とを受けねばならぬ精神的幼年囚」だとみなし、その成人監守の下に建てられた児童の牢獄の中で、子どもたちは悲哀と失望と憤激と反感を感じざるを得ないだろうと指摘したのだった。
 そして白秋の出した結論は
〈あゝ、日本の児童は入学の当初から呪われている〉だった。
 現在のわたしたちの学校が白秋の批判した頃の学校と比べてどれだけよくなっているだろうか。よく考えてみよう。
参考;北原白秋「小学唱歌々詞批判」(『芸術自由教育』1-10,1921.11)
posted by 河東真也 at 18:41| 福岡 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

芸術は教えられるか

 学校というところは何でも教えてくれる。だから教師は何でも教えられる。われわれの中にそういう驕(おご)りはないだろうか。……僕にはある。教師稼業をしていると、何でも教えるのが当然のようになり、つい滔々(とうとう)とあることないことを語ってしまう癖が身に付いていて、時折、真実を知っている人たちから顰蹙(ひんしゅく)を買ってしまうのだ。
 先般知ったところによると、道徳のテストが出回っており、「福岡県内では、小学校46校、中学校5校で実施された」(朝日新聞、2008.4.10)のだという。それで偏差値まで出るそうなのだから笑止千万なのだが、嗤(わら)ってもいられない。この業界では、そういうものが通ってしまう恐ろしさがあるからだ。なにしろ、愛国心評価の通信表が使われていた土地柄なのだから。
 もっとも、自分の道徳性も知らずに子どもに道徳を教え、かつ評価しようなどという、大それた不道徳な方々が世の中には溢(あふ)れているようなのだ。
 道徳もさることながら、芸術的教科などというのも学校には存在し、これもまた数値化しにくい教科である。道徳であれ、芸術であれ、その中に価値を含んだものというのは評価が難しい。何をどのように評価したらいいのだろう、と悩むことなく、音楽や美術(図画工作)に点数をつけちゃってはいないかな。
 明治14年に出された小学校教則大綱には、図画が登場している。この頃の図画というのは、「眼力と手力を鍛え、斉整・清浄美麗の感性を育て、職業的に技巧と発明の想像力を起こさせる」と当時の指南書には記されていた。加えて、「博物・地理・幾何のようなものの形を扱う教科の役に立つ」、つまり、他教科の補助教科という位置づけも得ていた。その典型が、臨画という教授法であった。これは、手本を見て、位置や形などを手本と全く同じように模写する方法で、こういう教育が当時の学校図画教育の常識だったのである。これだと評価はしやすい。教師には楽である。
 ところが、こうした臨画中心の図画教育を批判した人物がいた。山本鼎(かなえ)という画家であった。山本鼎は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を出た後、版画家として活躍していた。失恋を機にフランスに留学して、モスクワ経由で帰国したのが大正5年のことであった。山本鼎は帰国すると、父親が医院を開業している長野県小県郡神川村(現在の上田市)に戻り、ここで学校教育の現場と遭遇する。彼は、臨画中心の図画教育に呆れ果てた。これはあまりに不自由な教育ではないか、と思って地元の教師たちと語り合い、大正7年12月、神川小学校で「児童自由画の奨励」と題する講演を行ったのである。
 山本鼎は、臨画中心の図画教育は不自由であるゆえにまちがいである、子どもの中には可能性の芽がある、それを育てるには子どもの目で捉えた自然や想像の世界を自由に描かせるように指導すべきだ、と訴えたのである。そして、児童自由画展覧会を開催するに至った。これはけっこう評判となり、彼は日本児童自由画協会を設立して、自由画教育の普及に努めた。
 山本鼎は、自由ということを強調したわけではない。臨画教育が不自由すぎるから、その反対として自由を言ったまでのことだった。模写では個性的表現が制限される。これではダメだと言うのだ。手本は自然であり、これを自由に描くことが大切であり、子どもをそこまで引き出すのが教師の仕事なのだと言う。
 ここには、教えこむという教師の常套(じょうとう)的姿勢は見られない。彼の指導は、子どもが自由に描くことのできるようにいろいろな講話をしたり、映画、幻灯、写真、実地見学など、子どもの感性を磨く学習を重視し、そこから絵画の技法を見つけさせるという方法を採った。
 もうひとつ重要なことは、山本鼎が図画教育の目的を何においたのかである。彼は、図画教育は美術教育であり、美術教育は美的感銘と想像力にある、即ち目的は美術そのものである、とした。何かの補助教科の位置から、図画教育をすくい上げたのである。それにしても、図画教育はおろか、現在の教科教育自体が何かの補助教科になっていやしないか。補助教科だから教師は教えこむことができるし、子どもの芽を潰(つぶ)すこともできるのだ。
 彼の立ち上げた日本児童自由画協会は、まもなく日本自由教育協会と改称した。そう、芸術を教えるとは、教育それ自身を意味していたのだ。以(もっ)て瞑(めい)すべしかな。

参考;上野浩道『芸術教育運動の研究』風間書房 1981
posted by 河東真也 at 18:38| 福岡 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月24日

新年はこころを引き締めて

 あけましておめでとうございます。
 年の初めはキリリと「こころ」を引き締めなければなりません。それには何と言っても「教育勅語」しかないでしょう。(はぁっ?)先般ある方が訪ねてきて「某教科書には教育勅語を載せていて、実にけしからん」といきどおっていました。確かにお怒りはごもっともなんですが、僕なんかは講義のときに教育勅語をプリントしてばらまいているくらいなので、むしろ「いい教科書かもしれない」なんて思っちゃったりして。教科書はよく言うように「教科書を教えるんじゃなくって、教科書で教える」って考えるのが妥当でしょう。そうでないと教師の力量は育ちませんから。
 で、その教育勅語ですが、あれはよくないと言いつつちゃんと読んだ人も少なく、国粋派の方々から「親孝行のように良いことが書いてある。その美しい日本のこころをダメにしたのは戦後教育だ」なんて非難されると、「そうかもしれない」なんて思う人だってけっこういるのです。で、教育勅語ってどんなものか読んでみようよ。なにしろたった315文字だし、紀元節も近いし。
 まず教育勅語は「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠二徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我力臣民克ク忠二克ク孝二億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実二此二存ス」(わてが思うに、わての祖先がこの国を作ったときに考えたのは忠孝という徳だ。我が臣民は忠孝ということに心を一つにして代々その美しさを整えていかないかん。それが我が国の教育の根っこなんだ)という部分からなる。で、続いて「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」(おまえら臣民は仲良くしぃ)「恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」(自分にきびしく人にやさしくしぃ)「学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ」(よく勉強して立派になりぃ)「進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」(そしたら進んで世の中のためになるように、そして国の言うことに従うこと)と臣民(=国民ではなくて〈臣〉民ですよ)のつとめとして立派な人間になることをあげているのだ。けっして単純に人間として立派になれと言っているのではない。親孝行程度のことを勧めるのなら教育勅語でなくてもいいだろう。
 で、肝心なのはここだ。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」(そしていったん何かあるときは国のためにたたかえ!それがわてのみならず代々の天皇家のためにもなるのじゃ)と言う。ところがここでミソが付いた。なんと文法上のまちがいがここで起きてしまったのだ。さて、わかるかなぁ。Hセンセみたいな国語のセンセだったらきっとわかると思うんだけど。
 実は「一旦緩急アレハ」と已然形になっているが、ここは未然形で書くのでなければならないところだ。「一旦緩急アラハ」とね。でないと毎日戦争中みたいなことになってしまうだろう。のちの人びとは教育勅語を有り難がっていたけれどもこういうぞんざいな作り方をしていたことはよく胸にとどめておこう。
 そしてまとめは「斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」(これが天皇家の真実の教えなんだから、臣民も誰がなんと言おうときっちり守ること)となる。この教えは絶対正しいという自信はたいしたものだけれど、「中外ニ施シテ悖ラス」、つまり国外でも変わらずにやれ、というのは侵略主義と言われてもしかたないよね。だから、こういうものが戦前の教育の実に巧妙な小道具だったことを忘れちゃならないのだ。
posted by 河東真也 at 15:51| 福岡 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

民主主義の体験

 あけましておめでとうございます。一昨年末に教育基本法が作り直されるのを見過ごしてしまい、昨年は参議院選挙で大変動が起き、突然首相が職を投げ出したり、政界は大騒ぎだったね。今年もはや総選挙の噂が流れているけれど、国民の実際の関心はどんなものなんだろうね。
 こういう流れを横目で見ながら僕は日本の民主主義があぶない、と思うのだ。というのはこのところの選挙の投票率を見てみるといい。この15年くらいは衆参両議院選挙共に70%を超えることはなくなった。地方自治体の選挙なんて目もあてられない状況だ。殊に若い世代の投票率の低さは顕著だ。これはどうしてなんだろうか。ちゃんとした民主主義が育っていないのではないだろうか。
 何年か前に某県の中学校の社会科の授業を見た。生徒たちに模擬選挙をさせるもので、事前に教師が指名した候補者(男子生徒ばっかり)がチャラチャラした演説をしたところでクラス全員で投票するというものだ。一緒に見学をした学生たちは「おもしろい授業だ」と感想を述べていたが、僕は思わず「この学校に生徒会はないのかぁ!」と叫びそうになってしまった。
 『学習指導要領』をめくってみると、生徒会活動については「学校生活の充実や改善向上を図る活動,生徒の諸活動についての連絡調整に関する活動,学校行事への協力に関する活動,ボランティア活動などを行うこと」とある。しかも「教師の適切な指導の下に,生徒の自発的,自治的な活動が展開されるようにすること」という指導上の注意がついてね。しかし、戦前から生徒がこの程度の自治活動をするものはあった。それは校友会と呼ばれていたのだが戦時体制の中で解散させられ、学校報国団という形になって戦争協力の組織となってしまったという経緯があるんだな。
 これはまずいよね。それで戦後やってきた占領軍はこのような学校の生徒自治のあり方に疑問を抱き、生徒自治会を作るよう指示したという。そこでまもなく全国の小、中、高等学校に自治会と称する組織が発足した。指示を受けてのものもあったろうし、自発的に行ったものもある。來島靖生氏の回顧によれば修猷館高校では1947年の初夏あたりから生徒の中から自治的組織の立ち上げの動きが始まり、翌年に自治委員会を組織しているし、まもなく福岡地区高校自治連盟というものも結成されている。(『修猷館二百年史』)
 で、文部省としては、占領軍の指示で勝手に児童、生徒が自治会を作っていくのをほうっておくわけにはいかない。こうした動きを受け止めて学校教育の中に位置づけた。それを『中学校・高等学校 管理の手引』という出版物の中に書き込んでいる。そこには「各新制中学校・高等学校の管理には、実際に生徒を参加させるべきである」として特別教育活動(生徒会)を位置づけた。また、「『生徒自治』という言葉は、誤解と誤用の心配があるゆえ、決して用いるべきではなく、『生徒の学校の問題への参加』という言葉の方がよい」として生徒会という名称を用いている。何か自治という言葉におびえるところがあったらしい。
 とは言え、これに基づいて1949年に刊行された文部省学校教育局『新制中学校新制高等学校 望ましい運営の指針』には「特別課程活動の最も重要な目的の一つは、公民性の教育にある。もし学校の機構が独裁的になっていれば、その学校の生徒は民主的生活について何の価値あることも到底学び得ないであろう。」と生徒会活動の目的を明記し、「公民への教育は、単に政治についての本を読んだり、知識を得るだけでは達せられない。そのためには、生徒は、投票することによって投票ということを学び、実際に指導者を選ぶことによっていかにして指導者を選ぶかを知り、自分たちの事柄を取扱うことによってその取扱い方を学び、責任を与えられることによって責任ということを学ぶ。一言でいえば、なすことによってなすことを学ぶのである。」と断言している。
 つまり、文部省が自治会を教育的に読み替えた生徒会は公民になるための教育、すなわち政治学習の場だったのだ。いつのまにか公民としての教育を骨抜きにしていったのはいつからなのだろうか。投票率が落ちたのは1990年代に入ってからで、兆候は1980年代から見られる。その辺から察するに、たぶん1970年代半ばからの公民教育が変わったんだろうと思う。何が変わったのか。団塊世代のセンセイたちよ、胸に手を当てて考えてみて。今があたりまえになる前に。

posted by 河東真也 at 15:46| 福岡 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

PTAはたのしい

 前回書いたように、学校が父兄会なんかを作って「学校と家庭との連絡を密にする=学校のただしさを親に伝えていく」というのが日本の学校教育の基本だった。父兄会だけじゃない。母姉会というのもあったし、保護者会、学校後援会というようなものもあった。まあ、父兄という言葉には母親はいないし、母姉という言い方は明らかに女性の役割を固定化したイメージがあるよね。学校後援会なんていうのはそうした戦前の学校と親の関係を象徴的に示した組織名だ。つまり、学校、教職員の支援(金銭面も含む)をする組織であり、学校に従属する団体だったのだ。結果的に学校が戦争に向けて突っ走っていったときに親が子どもの命を守れず、逆に子どもを親の手で戦場に追いやることになってしまったのだ、とも言える。
 校長の言いなりに学校に奉仕することだけを考えているPTAがあるとすれば、気をつけた方がいい。また、PTA新聞を検閲したがる学校があれば気をつけなければならない。そういうところから学校がおかしくなっていくし、それは子どもの命にかかわってくるのだから。
 PTAというのは日本語では父母教師会(最初は「父母と先生の会」と言った)、戦後に始まったものだ。敗戦直後の日本にアメリカから教育使節団というものがやって来て日本の教育についていろいろ意見を残していった。それを『米国教育使節団報告書』というのだけれどその中にPTAのことが書いてある。それは「子どもたちの福祉を増進し、教育計画を改善するため」の「親と教師の団体」であり、「成人教育」の場であるということだった。この意見に基づいて文部省は1947年3月に「『父母と先生の会』資料」なるものを都道府県に配布した。これがPTAの出発なのだ。
 「『父母と先生の会』資料」にはPTAというのは子どもの幸福の実現のために親と教師が共に学び、手を取り合って行政に働きかけていくのが目的だというふうに書いてある。そして戦前の学校後援会や父兄会が、学校の教師が説明や注意したことを親がうけたまわるという受身的な立場であったことを批判し、教師と父母が対等の立場になることを要求していた。だから教師は自らPTAの会費を払って会員となっているのだ。それが負担という人がいるかどうかは知らないが、そのことで教師は学校という組織や教職員組合といった柵(しがらみ)から離れ、個人的立場で親と同じ目線で子どもの教育について語れるという自由を得たのである。親もまた、教師と対等に自分の子どもの教育を語れるようになったのだから,これもまた学校教育に対する権利と自由を得たのだ。PTAは自由を享受(enjoy)する組織なのだ。
 ところが、自由というのは憧れだけれど、いったん手に入れてしまうと持て余すものみたいなんだな。親も教師も子どもの教育について語る自由を享受しているかというとどうだろう。自由であるより誰かの言いなりになる方を選んでしまう。校長の言いなり、組合の言いなり、地域ボスの言いなり、世間の言いなり……そのくせ、勝手とわがままはお好きなようで,個人的にクレームをつけたがる人はどんどん増えてるみたいだ。
 そうじゃなくって自分の子どものことを、自分のクラスの子どものことを大切に思ったら親も教師もPTAに結集して、子どものために語り、力を合わせるべきなのだ。しかし、親も教師もいやいやPTA活動をしてやしないか。
 僕なんて単純に目立ちたがり屋なので、役員を頼まれたときには二つ返事でOK。しかもヒラ委員じゃダメ、委員長になる!なんて手を挙げていたくらいだからね。成人教育委員長から始まって、広報委員長もやった。PTA会長は3年間やった。上の子どもが卒業したら下の子どもが入学することになっていたので「6年やれるな」とひそかに思っていたら、副会長さんから「人間、潮時が肝腎よ」と諭されて渋々辞任したあの日が懐かしい。それに某小学校の『十年史』なんていうのも作ったりしたな。その分、我が子(その友だちを含めて)のためにがんばった喜びがあったし、ものすごく学ぶことが多かった。それにたくさんの先生たちと仲良くなることができた。そしてそれは僕の人生の財産でもある。こんなおいしいことがそこにあるんだから、とうちゃんもかあちゃんもセンセもPTAをもっと楽しもうよ。

                     参考文献;『千鳥小学校十年史』1990



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子どものむかし・いま・あした

 いろいろと起こる子どもたちの問題に、さまざまな意見が交わされています。「学校が悪いからだ」とか、学校に言わせると「最近の親はろくでもない」とか。学校の間でも、同じ子どもを相手にしているのに、小学校の先生は「あんなかわいい子が、中学に行くと荒れちゃうんだろう」とか、中学校の先生は「小学校はろくでもない子を送ってくる」とか。僕も言います、「小・中・高の教育でろくでもない子どもを送ってくれた」と。でもそれは愚痴で、このようなことをいくら言っても何の生産性もない。じゃあ自分はどうするのか、私はどんな子育てをするんだとか、自分の学校ではどういう教育をするんだ、ということが大切です。それを「オルターナティブ【alternative】」と言いいます。“対案”をたてるという意味です。
 子どものいじめや自殺の問題は、今、たまたまマスコミに載ったというだけで、実はずっとおこっています。十五〜十六年前に「葬式ごっこ」として、センセーショナルに取り上げられました。いろんな形で命を落とすこともあれば、幸い命は落とさなくても、人生を棒に振るくらいの打撃を受ける子もいっぱいいるわけですから。その後もずっと事件はあっています。
 昔、医療が発達する前は、おそらく今の7割くらいの子どもは亡くなっている、そういう時代でした。生まれて半年もすると、熱を出してよく病院に通います。今は少子化傾向ですが、学校に上がると病気をしなくなって大体二十歳くらいまでは元気です。僕らのように年をとって死んでも、そんなに悲しい話にはならないんですが、未成年の子が亡くなるというのは非常に悲しい。そして、子どもがどこで死んでいるかというと、いくつかの問題が学校と絡んでいます。

 一月の終わりに、福岡県内のある場所で、子どもがいじめを受けて自殺しました。クラスの友だちが亡くなったから、みんなお葬式に行きたいと思いました。学校は入試の直前だったから、葬式に行かせなかったんですね。先生のコメントが載っていました、入試直前で「これで子どもたちに動揺が走らなければいい」って。警察の配慮で、加害に回った子どもの取り調べは、入試が終わるまで待ってくれたそうです。変でしょう、自分の何らかの影響で友だちが自殺したら、自分の入試があったって、まず自分の気持ちを説明するとかいう指導はないんですね。
 三月にまた一人、同じ学校で自殺したんです。学校があわてて調査したら、いじめじゃなかった。学校はホッと胸をなでおろした、と新聞記事に書いてありました。自殺の原因は受験に失敗したことだったらしいと。僕は同じ問題だと思っています。友だちの死よりも受験が大切だと思っている学校で、受験に失敗したらそれは死ぬしかないって空気を感じるでしょう。そういうなかでは、多分いじめているとかいじめていないとかいうことは、親にも学校の先生にも見えない。子どもたちがどんな気持ちで学校に行っているのか、それを見ようとする目を僕らがもたなくてはなりません。

 僕にも経験があります。うちの子が不登校をはじめて、学校に相談に行きました。子どもたちの様子は、僕らにはそう簡単に見てわからない。だから、「いじめている子は、首謀者をはじめ誰と誰だかわかっている。だけどその子を責めないでほしい、特定しないでほしい。決して仲直りさせないでほしい」と。先生は少し戸惑いましたが、よくわかってくれました。いじめがあると、最後は「いじめちゃいけない」とか言って、仲直りだ、握手だと、そこで収めて帰りますけど、それで満足しているのはおとなです。仲の悪い者どうしを仲良くさせようとすること自体に無理があります。子どもにとって、かなり大きなプレッシャーです。だから「仲の悪い友だちがいるんなら、無理してまで付き合わない。その代わり、わざわざつばを吐いたり、そういうことをするな」と、おとなの付き合い方を教えてやらなければ。彼らは、人間の付き合い方にとっても下手になっているんです。

 不登校というのは、かつて長期欠席児童といわれていて、戦後昭和三〇年代ころは経済的理由によるものでした。その後、高度経済成長により長期欠席児童が少なくなったのは、一九六五年〜七〇年(昭和四〇年〜四五年)です。そのころから、「今の日本の教育はおかしい」と言われ始めました。一番の問題は、受験戦争の激化だろうと言われています。七〇年代後半から、学校に行かない子どもたちが出てきます。だんだん数が増えて、登校拒否ではなく不登校に。今は不登校がいるということがあたりまえになってます。学校に合わないということを、子ども自身が言うようになってきた。おそらく学校がもっているいろいろな体質が、ここにきて苦しくなってきている。
 「昔はよかった」という人がいますが、昔、学校は自分の生活のほんの一部分だったんです。学校でいやなことがあっても、帰れば全然違う世界がありました。建物自体も萱葺きで、どんどん風が入っていた。組織的な意味でもそうでした。昔の親は、みんな「適当にやったら適当に育った」と言います。
 昔の親に比べたら、今の親はしっかりしています。子どもをちゃんと見ているわけです。今の子どもは、時間監視されているような状態にあって、“逃げ場”がないんです。いたずらも悪さもできません。息が詰まって、隠れて悪さやいじめをするか、コンピュータに向かってネットで意地悪するしかできなくなっています。追い詰められているんですね。  歌手の井上陽水が主題歌を歌っている『少年時代』(原作:藤子不二雄A)という映画があります。藤子不二雄が自分自身をモデルにした戦争中の疎開の話で、都会から来たといっていじめられます。あの時代、軍国時代で社会的に逃げ場がないような状態であっても、子どもは逃げ場所を見つけていたんです。

 高校の未履修問題。学校教育の目的は、普通教育をちゃんとして「人格の完成をめざす」ことです。世界の歴史はこのようにして動いている、だから今の世の中こうなっている。外国に行きその国の歴史物の映画を見たり、NHKの大河ドラマを楽しく見る。そういう教養を与えておくのが学校教育です。それが我々生きていくうえでの大切な知恵なんですね。数学も物理もそうです。この世の中の仕組みや面白さを知っていくことをどう与えるのか、というのが学校での教育です。それを子どもたちはおもしろいと思って、自分で勉強する。そこから学力は付いてくるんです。
 ところが、受験に通すんだと変わった瞬間から、教え方が変わって、子どもは意味がわからずにその解法だけを覚えていくわけです。そうするとなかなか学力が付かない。仕方がないから0時限目があって、補習をして教えていく。このように全部教えていくと、子どもは自分で勉強しなくなるんです。勉強しなくなるから、大学では学力が落ちます。受験の学力は、あれだけ勉強しても身に付かないんです。僕はたまたま違う大学を出たから、九州大学に来るチャンスがあった。ここの大学を出ていたら、多分ここにはいなかったでしょう。大学の仕組みはそうなっているんです。全部運です。その運の時に、自分の努力で何とかできる、というのが大切です。
 高校の世界史が必須になったのは、理念として、これからは世界の歴史という教養をもった国際人になってほしいと、学習指導要領を文部省がつくったんです。受験のために日本史を勉強するというのは、子ども自身の問題で、親の問題でも学校の問題でもないんです。それを学校がルールを侵してまでやってしまった。教育を放棄して、子どもに学ぶ力を与えていないのは、とても責任があります。

 病気にはいろいろあります。生活習慣病は、僕らが長年不摂生してきたことが、ここに現れているんです。そういう病気は、社会制度(制度疲労)のなかにもあるんです。学校も社会も、一度大病を患って大手術をしているんです。戦争に負けて、その後に大改革をしているんです。ところが、まだ残っている部分や、治りきっていない部分があって、それがだんだんと現れてきている可能性があるんですね。それと、学校をとりまいている環境も変わってきている。我々は、学校と家庭の体質改善をしなくちゃならないでしょう。

 学校で勉強するのは、つまんないし、役に立たないのはどうしてだろうか。「おもしろいよ」という子はそれでOKです。さっきも言ったように、なぜ本当の楽しさを与えてもらってないのか、単純に学校の先生の責任というわけではありません。今の学校ができる前、寺子屋では、お百姓や商人の勉強、お嫁さんの作法など、勉強したいことがあると学校に行って、そのことだけを学んでいました。先生は一日七〇人くらいの生徒一人ひとりに教えてあげるんです。共通しているのは読み書きをするってことですね。
 ところが、今の学校の制度は明治の初めにできましたが、国が必要とする国民をつくるために、学校をつくったんですね。だから、国が何を教えるかを決めるんです。そこに集まったいろいろな子どもの要求があるから、誰にとっても必要なようで、誰にとっても必要のないような内容になる。これが今の学校のカリキュラムの成り立ちです。それがダメだというわけではなく、だからつまらなくなりやすいし、役に立ちそうもない。だけども、新聞を読んで事情がわかるような知識や、世界の現象を見てわかるような知恵がそこにはあります。
 もうひとつは、明治十八年に内閣制度ができて、初代文部大臣の森有礼(もり・ありのり)が、富国強兵のもと、臣民(天皇の家来である民)形成のために、純良・親愛・威重(平たく言うと、上には媚びへつらえ、お互いに傷をなめ合い、子どもには威張り散らせ)と、師範学校の制度を変えます。軍隊のように一つの目標に向かっていく縦系列の組織を考えたんです。金ボタンとカラー襟のある学生服は、当時の陸軍士官学校の軍服そのものです。
 体罰についても、日本は世界でも有数に、初期の段階から(明治十二年)法律で禁止していました。これはヨーロッパよりもずっと先なんです。それにもかかわらず、これが入ってきたおかげで、法律の建前と現実が違ってきます。

 学校がなかったころ、子どもたちは村の中で育っていました。「七歳までは神のうち」と、子どもは天からの授かり物でした。六歳くらいになると、言っていることがわかるようになり、病気もしなくなって、社会の一員として仕事(子守り)をするようになります。おとなと子どもは、同じ仲間として仕事を覚えていきました。そして、十二歳〜十五歳くらいになると、一人前になります。
 民俗学者の柳田國男は、そのころの子育てを「すこしづつ追い立てていってやらっていく」、「こやらい」と言っています。彼が生きていた時代、明治に新しく始まった学校教育は、無理やり牛を水のみ場に連れて行くような教育をしている、と批判しています。すでに、日本の学校教育の間違いは明治時代から始まっていたんですね。

 かつては、中学生になるくらいが身体も心も一人前だった。同じ生物ですから今でも変わりません。ところが、無菌状態でおとなにしないような教育をしています。中学校になるとますますそうです。それが中学の荒れにもつながります。子どもは親の背を見て育ちます。おとながおとなとして生きているのを見守っています。さらに子どもは、親の背を乗り越えて育つものです。
 基本的に、子どもが自分のことを自分でできるように、自分の人生は自分で切り拓くことができるように、生まれた時から少しずつ、手をかけないようにしていく努力を、親も学校もしていかなくちゃいけない。中学校になっても子どもがいるという認識だと、子どもはいつまでも伸びません。
 また、子どもが親の背中を乗り越えようとする時には、ちょっとかがんで乗り越えさせて、自信をつけさせることはとても大切だと思います。

 「子どもの権利条約」の趣旨は、子どもは常に一人のおとなと同じだけの権利をもっているというものです。国際条約は法律よりも優先します。何かするときには「子どもの権利とは何か」と常に考えながら、「何のためにやるのか」「誰のためにやるのか」ということを物差しにしてほしい。
 「教育基本法改正」の大きな問題点は、教育が一人ひとりの個人のために行われているものから、“国家の国民”という意識に変えられようとしていることです。学校の先生が、全体の奉仕者という位置づけから、国家の一員として国の教育の先端部分という位置づけになります。一〇条は、「国がこうだから学校で戦争に行け」と教えた経験から、子ども一人ひとりの幸せのために教育をするべきだ、といって国家から独立させた法律です。改正案は行政の中の一つに教育を入れようとしている。私たちの子どもの教育でなくなるということです。よく読んでほしいです。

posted by 河東真也 at 15:41| 福岡 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

学校はただしい

 昨年の11月に某小学校PTAと家庭教育学級に呼ばれて「地域・学校・家庭で豊かな子育てを〜子どものむかし・いま・あした」と題して講演をしにいった。会場は生涯学習センターで、PTA会員が51名、地域15名、他校15名の81名というなかなかの盛況であった。評判は結構よかったのではないか、と思っている。まもなく委員の方からメールが来て講演の概要をPTA新聞に載せるので、校正をしてくれとファイルを送ってきた。レイアウトもかわいらしくしてあるものであり、そのまま印刷すれば新聞になってしまうところまで完成されたものだった。文章も僕の話の趣旨を要領よくまとめてあって、実に感心した。それで少しばかり赤を入れて返送し、できあがるのを楽しみにしていた。せこい話であるが、今年の著作物にそっと入れようと考えていたのだ。
 ところがそのまま音沙汰がはなく、僕もいつのまにか忘れていたのだが、先般、そのときの委員の方から連絡があった。なんと僕の講演をまとめた文章はPTA新聞に掲載されなかったのだそうです。どうしてかって?学校側が載せるなと掲載を差し止めたのだそうです。つまり検閲なんだな。検閲については日本国憲法に次のように書いてある。
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
 これだ。なんと、学校は日本国憲法を平然と犯して僕と成人教育委員会の表現の自由を侵害したということになる。もうじき変わってしまうからどうでもいいものと考えていたのかと自民党の新憲法草案をみたら「検閲は、してはならない(第21条2)」とあった。憲法が変わっても検閲はいけないことなのだ。しかし、学校では何の疑念も持たずに検閲が行われている。どうしてだろうか。
 昨年通信簿について書いたときに「学校と家庭の連絡を密にして子どもの教育の効果を上げる」ことが目的の一つだったと説明したと思う。学校と家庭との連絡を密にすることは日本の学校にとって重要なことだった。手元に教育学術研究会編纂『小学校事彙』という書物がある。明治37年の刊行で厚さが7pばかりある。その中の「学校と家庭」という章を読んでみるとその当時の学校と家庭の関係がよくわかる。まずは学校と家庭の連絡は絶対に必要だと述べられ、さらに「学校は其の教授の点に於て、家庭よりも多量の事業を為すに反し、独り訓練上に於ては、学校に於ける仕事は、到底家庭に於て与ふる勢力に及ばざるや遙かに遠しと云ふも、決して妄言にあらざるべし」とある。つまり、教科教育は学校が家庭よりも影響力があるが、訓練(人間形成)については学校の影響力は圧倒的に家庭のそれには及ばない、と現状を把握している。だから、「訓練に関して、両者相一致し、相提携し、方針を一にし、方向を共にし、能く児童の特性身分境遇に応じて適切なる訓練を加へざるべからず」(人間形成に関しては学校と家庭の方針を一致させ、子どもの家庭の事情をふまえて適切な訓練をしなくてはいけない)と書いてある。要は学校の人間形成の方針を各家庭に守らせるために連絡が必要なのだということだ。通信簿はそのために始まったものだが、それだけではなくさまざまな方法が使われている。
 たとえば埼玉県の川越高等小学校では、「家庭心得」なる文書の中に学校と家庭の連絡について記述があり、通信簿、父兄会、学校参観、儀式への臨席などをあげ、「学校ノ申付ハ何事ニ限ラズ必ズ践ミ行ハスル様注意サレ」(子どもには学校の言うことを必ず守るようにしつけろ)と学校の絶対的な正当性を強調していた。
 ここに出てくる父兄会というのは懇話会とか懇談会という場合もあり、年に何度か父兄を招集して懇談するものであり、授業参観や学芸会、理化学の実験と抱き合わせにすることが多かった。これは学校の教育のありがたさを無知な父兄に知らしむるものであって、もちろん保護者の評価を求めるものではない。また、「児童保護者の心得」「家庭心得」というものが示され、学校から家庭に対しての指導が行われていたのだ。常に学校は正しいのだということを親によくよくわからせることがねらいだった。
 ということは学校の方針にとって好ましくない考え方は許されるものではなかったし、学校と意見のちがう親なんてあり得なかったのだ。学校が憲法すら無視し、超法規的に検閲をしているのは、そうした学校の絶対的正当性という幻想に未だにすがっていることのあらわれなのだろう。学校と意見のちがう親なんて今でも認めたくないのだ。
 

posted by 河東真也 at 15:29| 福岡 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

戦後教育と不作為の罪

 2006年末に教育基本法「改正」案が可決して戦後教育体制は大きく変わったことは承知してるだろうね。何も変わらないさ、なんて今までみたいに能天気にかまえているととんでもないことになる。例えば『心のノート』なんていうのがじわじわっと使わせられようとしているけど、使わないでいられるのも教育に対する不当な支配を教育基本法が禁止していたからだ。『心のノート』は事実上の国定教科書だと言われてきたが、これからは国定教科書にだってなりかねない。
 ところで、学校では『学習指導要領』に基づいて…、「教科書」を使って…、授業をしているだろう。だから『学習指導要領』が変わるたびに現場は大騒ぎをすることになる。総合的な学習にしても、ゆとり教育にしても学習指導要領の改定によって現場にもたらされたことがらなのだ。しかし、これらのことは教育現場が行政に支配されているといってもいいものではないか。
 『学習指導要領』にしても検定教科書にしても、教育がかつての戦争をささえ、国民を戦争に駆り立てていったことに対する痛悔の念から生まれたものだ。二度と同じ過ちは繰り返さないために教育を国民の権利として位置づけなおしたのが教育基本法であったし、戦後教育だったのだ。GHQは1945年にいわゆる四大指令というのを出して占領政策をはじめたが、その四番目はこの年の大晦日に出された「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」である。軍国主義的ないし過激な国家主義的イデオロギーがこれらの教科書を通じて子どもたちに教え込まれてきたとして、これらの教科書の回収と授業の停止を求めたものだった。ここから戦後の教育の立て直しが始まるのだが、他の教科書についても墨が塗られたことはよく知られていると思う。軍国主義から民主主義への転換にはいったん新たな権力の手でおこなわれたのだ。だから復活した教科書はGHQの認めた国定教科書だった。
 しかし、このままでは今まで通り国家のいいなりになってしまい、民主主義どころかちがった権威主義になってしまう。そこで『学習指導要領』なるものを文部省は作成したのだ。新学制発足直前の1947年3月に『学習指導要領』が発行された。これらには(試案)と銘打たれている。そして『一般編』の序論には戦後日本の教育はこれまでとはちがい、「こんどはむしろ下の方からみんなの力で,いろいろと,作りあげて行くようになって来たということである」と宣言し、「今後完全なものをつくるために,続々と意見を寄せられて,その完成に協力されることを切に望むものである」と現場の教師たちの手で作り上げていくようにという考えを示していた。
 この『学習指導要領』に基づいて新しい教科書を作ることになったのだが、当然それは教師たちが自由に執筆・編集していくものであった。ところが、そこに問題があった。戦後という時代である。物資は欠乏し、国民は食う物にも事欠いていたことは当時を生き抜いた人たちから伝え聞いているだろう。当然のことながら教科書にするための紙じたいがめっちゃ不足していたのだ。自由発行にすれば、紙をめぐって熾烈な競争となるし、当然価格にも影響を与える(なにしろ教科書は有料であった)。それで教科書の発行に関する臨時措置法という法律をつくって教科書発行を円滑にしようとしたのである。この法律の第1条には「この法律は、現在の経済事情にかんがみ、教科書の需要供給の調整をはかり、発行を迅速確実にし、適正な価格を維持して、学校教育の目的達成を容易ならしめることを目的とする」と記されている。教科書は自由発行されるべきものであるが、当時の経済事情を背景に検定という措置がとられたのである。だから経済事情が好転すれば教科書は教育現場の声を反映したものを自由に発行できるはずだったのだ。そろそろいいだろうとは思うのだが、この法律、改定を重ねながら未だに生きている。まだ「現在の経済事情」とやらに縛られているのだそうだ。
 誰が縛っているかって?自分たちで『学習指導要領』を作らなかった人々であり、自分たちで教科書を作ろうとしなかった人々である。権力にお任せした結果、『学習指導要領』は法的拘束力を持つようになり、教科書は検定のままなのだ。こういうのを不作為の罪という。深く反省しなくちゃ。


posted by 河東真也 at 15:22| 福岡 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校の文化史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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